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雀荘通いを夫は知らない【アメジスト机】

1 麻雀好きなサラリーマン


「かおりさん、もうアガリ? ご飯でも食べない?」
 常連客の里さんが、雀荘の店員の女の子たちをそんなふうに食事に誘うことは知っていた。でも、女流プロの若い子だけでなく、わたしみたいなオバサンにまで声をかけるとは知らなかった。
「え……」
「だめ?」
 2人で乗ったエレベータが地上に着く。渋谷駅に向かうので、自然と並んで歩くことになった。
「私、もう帰らないと」
「ふうん。おうち遠いの?」
「小岩です」
「都内じゃん。用事があるの?」
「家で、母が待ってますから」
 手が汗ばむ。里さんは30代後半。世間的に見てイケメンさんだ。
私が働いている「アチェト」のオーナー・塩崎マユミプロのファンでしょっちゅう会社帰りに寄ってくれる。里さんが来店すると、女の子たちが興奮するのがわかる。
 夜9時を過ぎると里さんはラス半コールをかけ、周りにいる女の子を誰彼となくごはんに誘い、一緒に帰るらしい。でもまさか、私の番が来るとは……。
「門限があるんだ。お嬢様なんだね」
 嫌味? こんな何のとりえもない38歳の独身女に「お嬢様」だなんて。
「姉と母の3人暮らしなんですけど、昼間はずっと姉が母の世話をしてくれているので、夜はなるべく早く帰りたいんです。今日は人が足りなくてこんな遅くになってしまって」
「そうか。いつもこの時間にはいないもんね。今日は珍しくかおりさんがいるから、ご飯に誘う大チャンスと思ったんだけど……ふられて残念」
そう言って、白い歯を見せる。ああ、女ったらしってこういう人のことを言うんだわ。胸が無駄にドキドキする。
「すみません。またいらしてください」
「うん、明日はかおりさんいるの?」
「はい、朝から6時までです」
「夜はいつも帰っちゃうの?」
「私、他の皆さんと違ってビル管理会社から派遣されたお掃除要員なんです。うちには病気の母がいるので、原則、昼間だけです。今日はたまたまです」
 意味もなく早口になる自分に自己嫌悪を感じる。
「そっか。じゃあ早めに駆け付けるね。ご飯行くの、あきらめないからね。じゃ、お疲れ、気を付けて!」
 里さんがさわやかに去って行った後、私は、なんとなくうれしかった。単なる社交辞令でもイケメンさんに誘われるのはうれしい。
(明日も会えるのかな……)
 女性店員が多い雀荘では、お客様との食事や店外デートを禁止している店もあるけど、「アチェト」は違う。店長のマユミプロ自ら、いろんなお客様と店外で会う。食事はもちろん、他店でのセット、同伴フリーなどもやっている。
「最終的にはアチェトにお客様を連れてきてね」とマユミ店長が言うのを聞いて、ある男性店員は「キャバクラの同伴出勤かよ」と毒づいていた。

 女王様キャラのマユミ店長は、年齢不詳でとてもきれいだ。昔はキャバクラだかクラブだかで働いていたらしく、そこで実践していた集客ノウハウを今でも実践しているだけだ。だから他の店員にも、「お客様に誘われたら自己責任で対応してね。でも、必ず『また明日アチェトに来てね』と言うのよ」と言っている。私はプロでもないし、若くもないのでお客様に誘われたことはないけど、「そういう営業の仕方もあるんだな」と思って眺めていた。
 

2 俺、今飛行機の中なんだ

「俺、実は今、飛行機の中なんだよ」
「やだ、何言ってるの? ここにいて麻雀打ってるじゃない」
 翌日、里さんはお昼過ぎにアチェトにやってきた。同番の女流プロたちが里さんを囲み、和気あいあいと打っている。今日は誰を食事に誘うのだろう?
「いや、俺、今日からタイに出張なんだけど、ヨメには昼過ぎの飛行機で行くって言って出たんだ。実際には夕方の飛行機取ってるからそれまで遊べる」
「あら、奥さんには麻雀してることは内緒なの?」
「絶対秘密。結婚する前に1回、徹マンやっててデートすっぽかしてさ。それ以来『麻雀絶対禁止』になっちゃった」
「毎日打ってるくせに」
「麻雀してることがバレるの絶対禁止ってことだよ」
「ずるーい」
その会話に、マユミ店長が割って入った。
「あら、でもうれしいわ。どうか絶対にバレないようにしてくださいね」
「もちろん」
 それを聞いて私は、なんだか嫌な気持ちがした。結婚って、夫婦って、そんなものなんだろうか?
 自分は独身だけど、いつか結婚したいと思っている。それは脳梗塞で倒れ、今は家で寝たきりの母が他界してから、と決めている。今はバツイチの姉と3人、母の年金と私の少ないお給料と姉の洋裁の内職でほそぼそと暮らしている。でも、母はあと数年のうちに他界するだろう。そうしたらいろいろなことを片付けて、身軽になって、恋をしたいし結婚をしたい。「母が生きているうちに花嫁衣裳を見せたい」なんて思ったこともあったけど、今の母には、もうそれを喜んでくれる感情は残っていない。姉と話し合って「お母さんを看取ったらまた自分の人生を生きよう。それまでは2人で頑張ろう」と決めた。
 もし、好きな人ができて結婚出来たら……一緒に食事や映画や麻雀に出かけたい。この店には掃除要員で入ったけど、見よう見まねで練習して打てるようになった。この楽しいゲームを、好きな人と一緒にできたらどんなに楽しいだろう……。里さんのように素敵な人とご縁があったら……私は「雀荘に行かないで」って言わずに「連れて行って」と言いたい……。
「あ、電話?」
里さんの電話が鳴っている。
「え、サトモトコ。ヨメじゃん」
「どうぞ出てください」
「でも俺、今飛行機の中なんだよね。出られないよね」
「それだめじゃない! 機内モードにしとかないと飛行機に乗ってないってバレちゃうよ」
女流たちがきゃあきゃあ騒ぐ。
「そうなの?」
「そうそう。早く機内モードにするか、電源切って!」
「わかった。電源切ろう」
 私は、驚いて言った。
「電話に出たほうがよくないですか? 奥様、飛行機に乗ってるとわかってて電話してくるほどの急用でしょう?」
「でも、そしたらウソついて麻雀してるのバレちゃうから」
 里さんはそう言ってスマホをポケットにしまい、また麻雀を打ち続けた。

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