見出し画像

奮い立つ葵 Inspiring Victoria【文・馬場裕一】

※Victoriaとは「勝利の女神」を意味する

●麻雀が変えた家族関係

与那城葵に好きな手役を尋ねると、
「ピンフです」
と答える。
また得意な手役は何かを尋ねると、同じく
「ピンフです」
と答える。

だが与那城のファンや、与那城の麻雀を配信した映像関係者には、そういうイメージはないようだ。
ピンフどころか正反対のトイツ系のプレーヤーだと思っている人たちも少なくない。
何しろキャッチフレーズが「役満ヘビーローテーション」なのである。

〈与那城は入会してわずか1年の間に私設リーグで大三元と四暗刻、女流リーグでは清老頭と地和をアガる、驚愕の引きを見せる〉(「麻雀ウォッチ」より)

入会というのはプロ入りしてということだ。
新人プロが1年間に4種類の役満をアガれば、こんな異名が付くのも当たり前だろう。

「女流リーグの清老頭に関しては、ホンロートイトイのテンパイをあえて外して狙いにいったので、すごく印象に残っています。役満をアガると、かなり有利なポイント状況になることもあり、思いきって強引に清老頭を狙ってみました」

そう語る与那城。
清老頭は難易度の高い役満だ。
それを狙ってアガリきってしまうのだから、他の選手の与那城を見る目も変わったのではないか。

「わたしと同卓する方には、すごく役満を警戒されるようになりましたね(笑)」

与那城葵は生まれも育ちも愛知県名古屋市である。
しかし苗字から、多くの人に沖縄県出身と思われるそうだ。
いちいち否定するのもめんどくさいから沖縄出身ということにしてしまおうかな、と考えたこともあったらしい。
兄妹は兄が二人。
年が6歳以上離れていたこともあり、仲は良くなかったという。

画像1
▲兄妹仲が悪くても元気いっぱい!

「ほとんど口をききませんでしたね」
というぐらいだから、そうとうなものだろう。
兄たちとは不仲のまま、与那城は小中高と学生時代を過ごした。
高校卒業後はモデル事務所で働くようになる。
主な仕事は、モーターショーやブライダルショー撮影会などのモデルだ。

▲モデル時代のお仕事。さすがとしかコメントのしようがない

さて、ここまで麻雀の「ま」の字も出てこない。
20年以上、与那城は麻雀と無縁の日々を過ごしていたのである。
しばらくして、実家の事情でご両親がやや長めの帰省をすることになった。
留守の間の家事担当は与那城。
兄たちのために食事を作り、兄たちと無言の夕食は、さぞかし虚しい時間だったに違いない。
だが、ある日、兄妹に転機が訪れる。
きっかけはテレビの地上デジタル化。
家でテレビが見れなくなったため、兄たちからこういう提案が出されたという。
「麻雀でも、やってみないか?」
麻雀牌やマットは兄たちが持っていた。
テレビの代わりになるかどうかわからなかったが、麻雀という言葉に興味を持った与那城が、その提案に乗ることにした。
三人しかいないのでマンズを抜いた三人麻雀。
ルールや役を教えられつつ、与那城は徐々に麻雀にハマっていった。
夢中になった。
世の中にこんなにも面白いゲームがあるのかと感激した。
その楽しさが、兄妹の関係も変えたようで、今までのことが嘘のように仲良しになったのである。
麻雀を介して人間(肉親)関係が良好になるなんて、なかなか聞かない話だ。
だが、この楽しい家族麻雀にもやがて終わりは来る。
二番目の兄が結婚して家を出ていってしまったのだ。

●決断早く雀荘に転職

残されたのは与那城と長兄。
さすがに二人麻雀では面白味はまったくない。
与那城は長兄と対策を話し合った。
その結果、なぜそうなったかはわからないが、二人でフリー雀荘に行くことにしたという。
まさか、そこまでと思う方もいよう。
だが与那城は、もうすでに麻雀無しでは生きていけない人になってしまっていたのだ。

初めてのフリー雀荘。
与那城は待ち席で見かけた、ある光景に感動する。
それは従業員の三色のアガリだった。

「ずっとサンマ(三人麻雀)だったので、三色て初めてみたんです。おっ、カッコいいと感動しました」

そして、その感動のまま卓に着いた。
四人麻雀の練習もせずに、いきなり実戦に入ったのである。

「サンマの経験しかありませんでしたけど、打ちながらヨンマ(四人麻雀)のルールや役を覚えることにしました。そのほうが早いと思って」

与那城はそう言うが、単に早く打ちたかっただけなのかもしれない。
それはともかく、最初こそ負け続けたものの、打ちながら覚える、即ち身体で覚える効果は絶大で、ほんの数日で与那城は勝ちに転じることができた。
四人麻雀の魅力を知り、与那城はさらにハマり続けていく。
初めこそ兄と一緒だったが、やがて1人で雀荘に通うようになる。
それだけでなくモデル事務所の仕事があるとき以外は、ほぼ毎日通った。
そんな女の子は珍しい。
雀荘側は彼女に目を付けた。
そんなに麻雀がお好きならウチの従業員になりませんか、と。
この誘いに、与那城は何と即オッケー。
モデル事務所を辞めて、雀荘の従業員に転職したのである。
決断が早く行動が早いのが、与那城の特徴なのだろう。
雀荘勤めは彼女にとって充実の日々だった。
なにしろ麻雀を打つこと、それ自体が仕事になるのだから。
また、お客さんを通じて麻雀仲間が増え、名古屋界隈の雀荘の事情にも明るくなっていったという。
与那城の麻雀への執着、溺愛は勤めている雀荘だけでは収まらなかった。
一年後、お客として他のお気に入りの雀荘に通う彼女の姿が見られるようになる。
雀荘で働いた後に別の雀荘に打ちに行く、というのもなかなかのツワモノではないか。
そして与那城は、そのお気に入りの雀荘に転職してしまうのである。
転職した雀荘の名前はマーチャオ名古屋店。
マーチャオには専属プロや常勤プロ、あるいはゲストプロが始終いるため、与那城も自然にプロ雀士の世界があることを知った。
しかし、与那城にはまったく興味がなかった。
そう、麻雀を楽しく打ちたい与那城にとってプロの世界など、どうでもよかったのだ。

●支部設立でプロの世界へ

ところが2016年、与那城は最高位戦日本プロ麻雀協会所属のプロ雀士となる。
しかもなった先は東京ではなく、勤め先のマーチャオ名古屋店。
プロの世界など全く興味がなかった彼女の身に、いったい何が起きたのか!?

「実は、その年に最高位戦の東海支部が設立されることになったんですよ。確か大阪、北海道に次ぐ三番目の支部だったんじゃないかな。そこでお店の最高位戦関係者から、麻雀をこの先続けていくなら東海支部のプロにならないかとお誘いを受けたんです。麻雀をこの先続けていくなら、というフレーズが気になりました。続けていくならプロになるのもありかな、と思ったんです」

「プロの世界がどういうものなのか分かっていなかったので、リーグ戦のルールで受ける団体を決めることにしました。もともとフリー麻雀しか打っていなかったこともあり、そのルールに近い競技ルールが良かったんです。だからプロ協会も選択肢にはありました。ただ、名古屋には協会の支部がなかったもので、自然と最高位戦を受けた感じですね」


東海支部設立などという大ごとさえなければ、与那城は一介の「麻雀大好き女性」で終わっていたであろう。
しかし、プロの世界は与那城に門を開けた。
その代わり与那城は、これからプロとしての責任と自覚を持って、麻雀と向き合わねばならなくなった。
その覚悟で臨んだプロ試験、思っていた以上に苦労したらしい。

「わたし、足し算引き算が大の苦手なんですよ。そのために試験前、一生懸命勉強しましたが、たぶんギリギリ合格だったんじゃないかな。イヤなのは、プロになった後も技能検定というのがあって、これをクリアーするのが大変で大変で……」

どこの団体もそうだが、受験者を悩ますのは筆記試験のようだ。
ギリギリだったかどうかは知らないが、与那城は見事プロ試験を突破した。
正式に最高位戦日本プロ麻雀協会所属のプロ雀士となったのである。
ここで与那城は、また麻雀の楽しさを見つけた。
それはリーグ戦である。
ふだんリーグ戦形式などで打つことはないから、与那城にとっては新鮮であり、同時にお気に入りとなった。
今でも、システムにかかわらずリーグ戦の麻雀は大好きだという。
もしかしたら、数字として記録に残っていく麻雀が好きなのかもしれない。

さて、新人プロになった与那城に、新たな対局の話が来た。
それは夕刊フジ杯の名古屋リーグである。

チーム名はSSC東海。
最高位戦東海支部の代表としての出場を要請されたのだ。

▲SSC東海。チームメイトは山田佳帆と共に。

このようなチーム戦形式の闘いも、与那城は初体験だったと思われる。
結果はともかく、終始楽しそうに打っていた。
その初日が終了した後、顔合わせを兼ねて選手とスタッフで軽く会食した。
この席でちょっとした事件が起きる。
酒の入っていた与那城が女流最高位を獲る!と高らかに宣言したところ、これにケチを付けられたのだ。
付けたのは他団体中堅男子プロ。
そんな麻雀じゃ獲れないよ、と与那城の宣言を揶揄したのである。

その瞬間、何が起きたか。

ここから先は

5,262字 / 15画像

¥ 300

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?