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どうしても名人戦を3連覇したかった理由【井出洋介】

井出洋介プロ インタビュー記事   第5回

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 最高位戦は多くの人に応援されて存続できた

  僕にとっては初めて頭を下げて企業にスポンサーになってもらうことができ、400万円というお金を集め、最高位戦日本プロ麻雀協会を存続させることができた。

 それが1985年のことで、29歳の僕はその年に初めて「名人」のタイトルを取ることができた。

 前回も書いた通り、翌年に初代スポンサーの「株式会社アイラブユー」は倒産してしまったけど、その後も日本文芸社などにスポンサーになってもらうことができた。

 「最高位戦後援店」も集まった。これには「G1」や「ウェルカム」など、主にいわゆる点5のフリー雀荘が乗ってくれた。

 当時、僕たちは劇画雑誌の「近代麻雀」に最高位戦の記事を載せてもらっており、フリー雀荘は広告をそこに掲載していたので、僕たちの記事の読者がその広告を見て雀荘に行くというウィン・ウィンの関係が成立していた。

 最高位戦Aリーグの対局を、最高位戦の後援店でやったこともある。いろいろな雀荘を回ったが、その中のひとつに金子正輝さんが経営する「KO(ノックアウト)」があった。帰りに東上線が事故で各駅停車しかなく、「坂戸は遠いなあ」と思ったのを今でも覚えている。

 他には麻雀用具の販社「フタバクリエイティブ」のショールームでリーグ戦の対局をしたこともあった。まるでジプシーのようだったけど、こうして最高位戦は生き延びてきた。

 満30歳で最高位戦の代表になったわけだが、まだ若い僕を第6期最高位の狩野洋一さんや、第7期最高位の大隈秀夫さんといった大先輩たちが、いろいろ後ろ盾になってくれたのが助かった。

 狩野さんグループでは、後に僕が監修したファミコンのソフトも、たくさん買ってくれたりして、感謝している。

カプコンの麻雀ソフト監修

 ファミコンのソフトの仕事の話が僕のところに持ち込まれたのは1987年。僕は名人を2連覇していて、次勝てば3連覇というタイミングだった。

 当時のカプコンはまだそれほど知られていない会社で、社会的にも「ファミコンのソフト」とか「ゲーム」という分野がまだそれほど大きなビジネスではなかった時代だ。

 カプコンは初め、当時の竹書房の社長・野口恭一郎さんに相談を持ち掛けた。「ファミコンのソフトを出すに当たって麻雀プロの名前を借りたいが、誰かいませんか?」という話だったようだ。そこで野口さんは「若い人はどうですか?」と、僕の名前をあげてくれたそうだ。この点で、僕は野口さんにもとても恩義を感じている。

 その頃の僕は、麻雀のためなら何でもやろうとしていた時期だから、喜んでその仕事を引き受けることにした。しかし、やる以上は名前を貸すだけではなく、きちんと監修したいと伝えた。

 当時の麻雀ゲームソフトは、ゲームセンターにあった「ジャンピューター」と同じように1対1の戦いだった。アルファベットのA~Nまでのボタンがあって、切る牌を選んで押すとその牌が出ていく。そのスタイルの専用コントローラーが付いていた。

 1対1の戦いだからツモられても振り込んでも、マンガンなら8000点減る。僕はこれが納得できなかった。

 カプコンの担当者に「振り込んだら8000減るけどツモられたら2000しか払わないようにしてほしい」と言った。そうすると、振り込まなければ勝てるはずだ。それが麻雀のゲーム性の大事なところだと思ったのだ。

 ところがカプコンで麻雀ゲームを担当したプログラマーは、ほとんど麻雀のことを知らなかった。だからいろいろな指示はすべて二進法の0と1(つまり、イエスかノーか)で教えないといけないので、僕自身も「こうやってみたらどうですか」とか工夫して指示を出していく作業をがんばってやった。

 キャラクターも、阿佐田哲也さんの「麻雀放浪記」に出てくるようなこわもての人とか、ちょっとワケアリの風采の人が多かった。それが当時の「麻雀」のイメージだったのだと思う。だが、それを変えるまでの時間はなかった。

 このソフトは「井出洋介名人の実戦麻雀」という名前で発売されることになり、販売促進のためのテレビ番組まで作られた。

 東京12チャンネルで「あなたならどう打つ」という15分番組だったが、対局番組のさきがけでもあった。これが後の「THEわれめDEポン!」などにつながっていったのかもしれない。

ソフト発売前に名人陥落はできないというプレッシャー

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