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「リーチ入りました頑張ってください」は不要か?【アメジスト机】

1、「うるさいっ!」で出禁?

「4卓リーチ入りました、頑張ってください」
「ああ、うるさいっ! いちいち言われなくても頑張るわ!」
「中田さん、まあまあ、そう熱くならないで」
 平日の夕方、混み始めたフリー雀荘「アングル」。壁際のワン入りおっさん卓で常連の中田さんがわめきだした。同卓しているアルバイトの杏里さんが固まっている。たった今「リーチ入りました頑張ってください」の決まり文句を発した女の子だ。
「どうしました?」
「よその卓でリーチが入るたんびに、上家が『頑張ってください』って言うの、嫌なんだよ。やめてくれない?」
 中田さんは、興奮気味だ。同卓の脇坂さんが取りなすように
「びっくりするよね、急に関係ないことを言われると」
と口をはさむ。
「中田さん、いっつも嫌がってるよね。今日は特に気になるのかな? ちょっと飲みすぎ?」
「すみません。メンバーの決め事のひとつなんで」
 俺が頭を下げた途端に、また別の卓の機械音声が「リーチ」と言い、それを聞いた杏里さんが反射的に、
「リーチ入りました頑張ってください」
と言う。

(このタイミングで言うか?)と俺も驚いたが、
「だからそれがうるさいって言ってんだろうが!」
 中田さんが立ち上がって右手を振り上げた。さっきから、ビールを2杯飲んでいる。これは、やばい。殴るのか!?
 場が凍りついたときに、中田さんがよろめいた。
「きゃああっ!!!」
 ドン、ベリッ、と嫌な音。同時にビールのタンブラーが倒れ、中身が飛び散る。店中の注目がこちらに集まる。
 しかし、たいしたことが起こったわけではない。中田さんが勝手にひっくり返って、その拍子に壁にぶつかり、穴が開いただけだ。しかし、杏里さんが泣き出してしまったので、おおごとみたいになった。まず俺は店内全体に向かって、
「もうしわけございません」
と、声をかけた。店長に「緊急事態」と知らせるためでもある。
カウンターの中にいた店長が飛んできて、
「杏里さん、あっち行って。この卓はノーゲームにします。すみません」
と言ってから、店内の他のお客様に対し、
「お騒がせしました。申し訳ありません」と
声を張り上げて謝罪した。 
脇坂さんと、もう一人の常連・岡さんが中田さんを抱き起して支えている。
「ケガはないですか」
「大丈夫」
と言いながら眼鏡をはずし、中田さんが泣いている。俺はモップを持ってきてビールの掃除をした。この状況では、やるべきことをやるしかない。学生バイトの俺の手に負えない。
「今日はもう帰った方がいいネ」
脇坂さんが言うと、中田さんはうなずいた。
「帰る。もう来ない……」
 よろよろと出口に向かう中田さんに、店長が何か言っている。店長の声が「またお越しください」と響くのを待ったが、それは聞こえなかった。
「改めて、杏里さんと上村君、ここで本走して。お二人は今回ノーゲームで、次の1ゲームも無料でけっこうです。すみませんでした」
「杏里さん! 出番ですよ!」
 店長が差し出した手にモップを渡し、俺は何事もなかったように、次の半荘に集中する努力をした。ただ、無料ゲームなのでなるべく早く終わらせなくちゃという意識はあった。
 脇坂さんがずっと、俺の方を見ている。いや、俺の左肩の上の方を見ている……? 振り向くと、そこには中田さんがぶつかって開いた壁の穴があった。
「ずいぶん安普請なんだね」
「ですね」
「リーチ入りました頑張ってください!」
 杏里さんは、よその卓に反応して条件反射で言う。今まで言うのが当たり前だと思って意識したことはなかったけど、確かに急に言われると驚く。しかもこの状況で普通に言える神経はよくわからない。
 それ以上、中田さんのことは考えないようにして、いつものように淡々と打った。脇坂さんも岡さんも「ラス半」と言わなかったので安心した。

2、「がんばって」の重圧に病んだ男

「中田さん、出禁ですか?」
「まあ、そうだな。もう来ないって言うのを止めなかった」
 8卓中、セット1卓、フリー5卓が丸い店内を見ながら、こともなげに店長が答える。
「壁に穴開いちゃったから、後でオーナーが来るよ」
「倒れてぶつかっただけで穴開いちゃうんですね」
「たまたま、そこが空洞だったんだろ。そこに柱とかあったら体の方が危なかった。中田さん、運がよかったんだよ」
「ドライですね」
 そのとき、店内に中年の女性が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 うちの客ではない。化粧っ気がなくて普段着のおばさんだ。
「申し訳ありません。中田の家内です。ご迷惑をおかけしたようで……」
「あ、奥さんですか。いえいえ、肩をぶつけられましたけど、大丈夫でしたか? どうぞ」
 さりげなく、店長があいている卓の椅子をすすめたとき、もう一人、中年の女性が入ってきた。肩にかかる黒髪、濃い化粧。中田さんの奥さんと年齢は変わらないだろうが、雰囲気が全然違う。これはオーナーの最上さんだ。夫婦共同経営だけど主人の方はめったに顔を見せない。
「おはようございます、来るの早いですね」
「だって、まだ店、暇だから」
 オーナーがやってるスナックは、3ブロック先にある。
「壁が壊れたって?」
「あ、こちら、中田さんの奥さんです。中田さんが倒れたときに壁にぶつかって……」
「あら、おけがは? 大丈夫でした?」
「はい、体は、何ともないようです。ただ、壁に穴が開いてしまったとかで弁償を……」
「まあ、ちゃちなつくりですから、気にしなくていいですよ」
 オーナーがさらっと言うので俺はほっとした。
「うちの主人、会社をリストラされましてね、ちょっと最近荒れてて、申し訳ありません……」
「それはたいへんですね」
「お恥ずかしい話なんですけど、資格試験に失敗しましてね、それでやめることに……」
 巷でよく聞く話ではあるけれど、実際に知り合いがそういう目にあうのは初めてだ。
「私も、会社の同僚のかたも、『頑張って』って言いすぎたみたいで、『頑張って』っていう言葉に異常に反応するんです。それで、カッとなったみたいです。本当にすみません。もうこちらには、来ないって言ってますので、許してください」
 オーナーは、(ちょっと状況が分からない)という顔をしている。

 客が倒れて壁が壊れたということしか聞いていないのだろう。
「これ、ちょっとですけど」
と、奥さんは持っていたエコバッグから缶ビールの6缶パックを出してサイドテーブルに置いた。
「え、そんな、いいですよ」
と店長は言ったが、奥さんは「いえ、では、これで」と立ち上がって帰ってしまった。打ちながらチラチラこちらを見ている客もいたので、俺はそれ以上、どんな声をかけていいのかもわからず、ただ立っていた。
「じゃあ私、店に戻るわ。また後で来るからその時に詳しいこと聞かせて」
「はい、リストラって、大変ですよね」
「でも、夫婦仲がよさそうで何よりだわ」
「そうなんですか?」
「というふうに見えたけどね、私には。壁、何か貼っといて。ガムテープでもいいから」
「はい」
 俺は、中田さんの奥さんが置いて行ったビールを冷蔵庫に入れ、ボール紙をたたんでゴミ箱に突っ込んだ。

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