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三国志の終わるころ    『諸葛亮孔明.3』


魏を倒すための第一歩となるはずだった北伐は散々な結果に終わってしまいました。

今回は第一次北伐のその後と蜀の隠れた名将のお話しです。


『泣いて馬謖を斬る』


雍州から撤退して漢中郡に帰還した孔明は、敗戦の軍中で戦後処置を行いました。

今回の敗戦の責任をとるため、孔明は丞相という最高位の官職から三等降格という処分を自らに下します。

また曹真に敗れた趙雲も降格処分となりました。

街亭の地で大敗を喫した馬謖と彼の属将数名には非常に厳しい処罰となりました。

孔明は彼らの稚拙な戦いぶりのせいで多くの兵が命を落としたこと、その責任を償わせるために彼らを処刑すると決断します。

蜀軍は少なからぬ損害を被ったようですが、それにしても一度の敗戦で極刑に処すとはずいぶん苛酷な処分にも思えます。

たしかに馬謖は大失敗をしてしまいましたが、そもそも諸将の思惑をよそに彼を一軍の主将に抜擢したのは孔明自身なのです。

街亭の大敗も、北伐を断念せざるをえない結果に終わったことも孔明の采配ミスに依ることは明らかであり、この点馬謖を最大の戦犯にして敗戦のけじめをつけようとした、そんな印象が拭えません。

戦犯として囚われの身となった馬謖は孔明に助命を乞う嘆願書を送りますが、それも虚しく、首を落とされ生涯を閉じました。

第一次北伐は孔明と馬謖二人の智者がそろって失態を犯す黒歴史となってしまいました。

多くの将士が憂き目をみたこの敗戦のなかで、一人光彩を放った武将がいました。

馬謖軍の副将として街亭で戦った王平です。

敗戦の咎めを受けた馬謖らとは対象的に、街亭撤退時の見事な働きを賞された王平は官位を与えられ昇進もしています。

三国志の武将を多少知っている人でもあまり知られていないであろう王平ですが、実は対魏戦線で幾多の活躍をみせた優秀な武将です。

王平とはどんな人物だったのでしょうか。

彼の人となりと、街亭での活躍をお話しましょう。


叩き上げの実戦派武将 王平


王平は板循蛮(はんじゅんばん)という異民族の出身であったと言われています。

かつて曹操が漢中に侵攻してきた際に、板循蛮の指導者とともに曹操に帰属し、この時曹操軍の部将に任命されました。

その後曹操と劉備が漢中を取り合って戦い、劉備がこれに勝利し漢中を制しますが、曹操軍として参戦していた王平は劉備軍に帰途を阻まれ帰れなくなってしまったので降伏して今度は劉備軍に属することになります。

劉備は王平に牙門将・裨将軍(がもんしょう・ひしょうぐん)という北斗神拳みたいなポストを与えて、彼を迎え入れました。

王平には変わった個性があります。

彼は字が読めなかったため書ける文字も自分の名前を含めて十字に満たなかったそうです。
長らく軍隊生活を送ったために文字を学ぶ時間が無かったのです。

かといって頭空っぽというわけではありません。

「史記」や「漢書」といった歴史書を人に読んでもらいその本旨を掴み、論ずるとなれば要点を外すことはなかったといいます。

さらに文書を作成するときには口述筆記で人に書いてもらい、筋を違えることはありませんでした。

王平には物事の本質を捉えて理解する頭の良さが備わっていたということでしょう。

劉備配下となったのち第一次北伐までの期間は何をやっていたのかはよくわかりませんが、やがて王平の名が歴史上にきらめく時がやってきます。

前回の記事で触れましたが、第一次北伐で王平は馬謖軍の副将として配属されました。

実戦経験がほとんど無い馬謖をサポートしてもらいたいと孔明は考えたのです。

この点孔明の人選は当を得ていたといえます。
法に忠実な王平の性格も、厳格な遵法精神もった孔明に信頼されていたのでしょう。

さて魏軍を阻むため街亭の地に到着した馬謖は、敵より高所に陣取って地の利を取ろうと考えますが、王平は山に登ってはいけないと馬謖を諌めました。

しつこく諌める王平をうるさく思ったのか、王平の部隊だけを山のふもとに残して馬謖は全軍を山上に布陣しました。

この馬謖の独善的な行動が結果的に蜀軍の窮地を救うことになります。

街亭に到着した魏の張郃軍に山を四方から包囲され、水源を絶たれた馬謖軍は慌てふためきました。

「急ぎ水源を確保せよ」王平は何度も馬謖に言ってよこしますが、混乱しはじめた馬謖軍には時すでに遅し。

敵軍が慌ただしいと見てとった張郃は馬謖軍に攻撃を仕掛けます。

馬謖の難解な指揮も虚しく持ちこたえきれずについに馬謖軍は壊乱してしまいます。

思い思いに逃げ落ちる馬謖軍の兵士に追い討ちをかける張郃軍。

その時どこからか陣太鼓の音が響いてきました。

山のふもとで身を潜ませていた王平の部隊が張郃の追撃を防ぐべく立ち上がったのです。

陣太鼓を鳴らし意気盛んな王平隊を察知した張郃は
「蜀軍は伏兵を潜ませていたのか」
と警戒し追撃の手をゆるめました。

張郃軍の勢いが止まった隙に馬謖軍の兵士たちは命からがら退却していきます

王平隊は逃げ落ちる兵士たちを集めながらなんとか撤退することに成功しました。

王平の機転のかいあって馬謖軍は一命を取り留めたのです。

無学でありながら武将の本分を全うする王平と実戦を侮って才知を活かせず失敗した馬謖。

街亭の戦いはまるで正反対な二人の明暗がはっきりと別れた一戦となりました。

ただ繰り返しになるようですが実戦経験がほとんど無い馬謖にとって、魏軍トップクラスの名将張郃率いる大軍を防ぎ止めるというのは荷が重すぎたというのもまた事実でしょう。

馬謖はやらかし先生風ネタキャラ扱いされがちですが、決して彼が無能な人物であったわけではありません。

のちに孔明の後継者となる蔣琬(しょうえん)は馬謖が処刑されたと知り、
「天下の定まらぬうちに智略の士を死なせてしまった」
と逸材を失ったことを嘆きます。

智者が知る智者それが馬謖の本分であったでしょう。

戦場の指揮官ではなく孔明のブレーンに撤してその才を活かしていれば彼の人生は大きく違っていたのではないかと想像してしまいます。



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