イギリスはどのようにグローバリズムを生み出したのか

この投稿はRichard Poe氏の2021年4月27日の記事(下記のリンクを参照)の抄訳です。
誤訳や訳漏れがある可能性がありますので、記事の内容を参考にする場合は必ず下記リンクの英語原文に依拠してください。
また、日本人に伝わりやすいように原文にはない文言や説明を追加している場合がありますので、ご承知おきください。
英語原文:


イギリスはどのようにグローバリズムを生み出したのか
現代のグローバリズムはヴィクトリア朝イングランドで生まれた。この計画は大英帝国とアメリカを統合し一つの超大国をつくるためのものだった。
 
RICHARD POE
2021/04/27
 
ほとんどの愛国者は「グローバリズム」というものを敵として認識している。
しかし、グローバリズムとは一体何だろうか。
何よりもまず、グローバリズムとはイギリスで考案されたものだ。
現代のグローバリズムはヴィクトリア朝イングランドで生まれ、のちにイギリスのフェビアン社会主義者によって広められた。
そして今では、現代世界の支配的な信念体系となっている。
ジョージ・オーウェル(George Orwell)はそれを「イングソック(Ingsoc)」と呼んだ。
オーウェルは小説『1984年』(原題『Nineteen Eighty-Four』)で、大英帝国がアメリカを統合し、イングソック(イングランド社会主義(English Socialism)の略)という邪悪なイデオロギーを信奉するオセアニアという超大国を形成するという未来を予言した(注1)。
オーウェルは実際のグローバリストの計画を知った上でこの地獄を描いていた。
 
「世界の連邦化」
19世紀、覇権を拡大したイギリスによって世界が支配されることは避けられなかったと思われる。
大英帝国の為政者たちはイギリスのルールで世界を統治する計画を立てた。
それを実現するための鍵は、オーウェルが小説で描いたように、アメリカと手を組むことだった。
アメリカのたくさんのイギリス信者が大喜びでこの計画に賛同した。
1897年、ヴィクトリア女王在位60周年記念式典が行われた際、ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)紙は「大英帝国は明らかにこの星を支配する運命にあり、アメリカはその中で大きな役割を担っている」と熱狂していた(注2)。
1842年、アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson)は詩「Locksley Hall」(ロックスリーホール)を書き、その後まもなくしてヴィクトリア女王の公式の桂冠詩人となった。この詩は、「普遍的な法」、「議会」、「世界の連邦化」による太平の時代を描いている(注3)。
テニスンの詩は国際連盟や国際連合を暗示していたが、これらの構想を描いたのはテニスンではない。テニスンはイギリス人エリートがすでに進めていた計画を称賛したにすぎない。
しかし、イギリス人グローバリストは何世代にもわたってテニスンの詩をまるで聖書のように大切にしてきた。1931年、ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)は「現代のあらゆる予言の中で最も素晴らしい」と褒め称えた。また、チャーチルは、国際連合はテニソンの構想が実現したものだと述べた(注4)。
 
自由帝国主義
テニスンの詩に感化されたイギリス人指導者としては他にも哲学者のジョン・ラスキン(John Ruskin)があげられる。
1870年にオックスフォード大学で初めて行った講義で、イギリスは「支配か死か」(世界を支配するか他国に支配されるか)の運命を背負っていると力説し、ラスキンは学生に衝撃を与えた(注5)。
このような主張を通じてラスキンが生み出した理論は、まもなく「自由帝国主義」として知られるようになる。これは、「自由主義」国が野蛮な国を支配して「自由主義」の価値を広めるべきだという考えだ(注6)。
実際のところこの考えを広めた人のほとんどは社会主義者だったため、「社会帝国主義」と呼ぶ方がふさわしい。
マルクスが『資本論』(原題『Das Kapital』)を書き終える前から、ラスキンは「共産主義者」を自称していた(注7)。
ラスキンの見解では、大英帝国は社会主義の普及に最適な媒体だった。
ラスキンの社会主義はエリート主義と奇妙に混ざり合っており、ラスキンは北方民族の優秀さを称賛していた。ラスキンの言う「北方民族」とは、イングランドを建国したノルマン人、ケルト人、アングロサクソン人を指す。そして、ラスキンは庶民ではなく貴族こそがイギリスの美徳を体現する存在であると考えていた(注8)。
また、ラスキンはオカルト信者であり、一部の伝記作家によると小児愛者でもあった(注9)。ラスキンにはこのような異様な点があったが、それと似たような異様さが今なお一部のグローバリスト団体に見られる。
 
教育慈善団体ローズ・トラスト(Rhodes Trust)
やがて、ラスキンの教えに感化された世代のイギリス人政治家が台頭した。
その中でも特に熱烈なラスキン信者だったのがセシル・ローズ(Cecil Rhodes)だ。ローズは学部生の時にラスキンがオックスフォード大学で行った初めての講義を聴き、その内容を書き留め、生涯保管していた(注10)。
政治家になったローズはイギリスの拡大を積極的に推進した。「世界にイギリス人の住む場所が増えれば、人類にとってより良い世界になる」とローズは述べている(注11)。
ローズは遺言で「イギリスによる全世界の支配」を推進するための財産を残した。それはすべての英語圏の国々を統合して一つの連邦をつくることを指し、ローズによると「アメリカ合衆国を再び大英帝国固有の領土にする」ことを意味する(注12)。
そして、それによって「超大国ができ上がり、その後戦争を行うことは不可能になって、人類にとって最善の利益が増進される」とローズは遺言状で述べている(注13)。
つまり、世界の平和はイギリスが覇権を握ることによって実現するということだ。
1890年代にはほとんどのイギリス人指導者がローズの考えに賛同していた。
 
ラウンドテーブル
1902年にローズが亡くなったあと、アルフレッド・ミルナー(Alfred Milner)がローズの運動を受け継いで秘密結社「ラウンドテーブル(Round Table)」を創設し、英語圏の国々による世界連邦を実現するためのプロパガンダを行った(注14)。
ラウンドテーブルのメンバーはアメリカなどの国に狙いを定め、各国で「ユダの山羊」の役割を果たす指導者を集めた。ユダの山羊とは他の動物を屠殺者のもとへ連れてくるよう躾けられた動物を指す。
しかし実際には、ラウンドテーブルは人間を本物の虐殺者のもとへ誘おうとしていた。ドイツとの戦争が起こると見込んでいたのだ。ラウンドテーブルは時が来たら軍隊を送ると約束することを英語圏の植民地に求め、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、南アフリカが同意した(注15)。
そして、第一次世界大戦を経て世界にグローバリズムが浸透し、国際連盟が生まれた。
これはイギリスの計画だった。
何世代にもわたって子供たちは学校でウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)がグローバリズムの生みの親だと教えられてきたが、ウィルソンの「理想」はイギリスの工作員によって育まれたものだった。
 
戦争を終わらせるための戦争
イギリスがドイツに宣戦布告してからわずか10日後の1914年8月14日、小説家ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells)が「The War That Will End War」(戦争を終わらせる戦争)という見出しの記事を書き、「これは今や平和のための戦争だ」「この戦争の目的はこのようなことを二度と起こしてはならないと合意することだ」と主張した(注16)。
1914年10月、ウェルズは書籍版の『The War That Will End War』を出版した。そこには、「終戦後に世界中の自由主義者が世界会議の創設を強く求めれば、世界を支配する平和連盟が設立されるだろう」と記されている(注17)。
しかし、ウェルズは「平和連盟」というアイデアを生み出したわけではない。イギリスの公式な政策を宣伝しただけだ。ウェルズはイギリスの戦争宣伝局(War Propaganda Bureau)、別名ウェリントン・ハウス(Wellington House)の秘密工作員だったのだ(注18)。
 
ホワイトハウスで暗躍するイギリスのスパイ
イギリスの指導者は、平和連盟はアメリカの支援なしでは成り立たないことを理解していた。そのため、イギリスの情報機関はウィルソン政権への浸透に尽力し、驚くほど簡単にそれを成し遂げた。
ウィルソン大統領の最高顧問だったエドワード・マンデル・ハウス(Edward Mandell House)はテキサス州出身で、その一家にはイングランドとの強いつながりがあった。
ハウスの父はイギリス生まれで、南北戦争時に封鎖突破船を提供し、綿と引き換えに反乱軍が使用する軍需物資をイギリスから仕入れて富を築いた(注19)。
エドワード・ハウスは少年時代に兄弟と共にイギリスの全寮制の学校に通った(注20)。
ウィルソン大統領の顧問となったハウスはイギリスのスパイと緊密に協力した。特に密接につながっていたのが、イギリスの秘密情報部(Secret Intelligence Service、SIS)のアメリカ支局長だったウィリアム・ワイズマン卿(Sir William Wiseman)だ。ハウス、ワイズマン、ウィルソンはとても親しくなり、一緒に休暇を過ごすこともあった(注21)。
「国際連盟」というアイデアはイギリスの外務大臣だったエドワード・グレイ卿(Sir Edward Grey)が生み出したものだ。グレイは1915年9月22日付けのハウス宛ての書簡で国際連盟を提案するよう大統領を説得できるかどうか尋ねている。アメリカの大統領が提案した方が受け入れられやすいからだ(注22)。
そして、ウィルソンは同意した。
1919年のパリ講和会議にウィルソンが参加した際、ワイズマンとハウスはすぐ傍でウィルソンの一挙手一投足を誘導した。そこには、グローバリストの計画に傾倒していた他のイギリス政府高官やアメリカ政府高官もおり、その多くはラウンドテーブルと直接つながっていた(注23)。
 
特別な関係
元SIS職員のジョン・ブルース・ロックハート(John Bruce Lockhart)はのちに、ワイズマンを「イギリス史上最も大きな成果をあげた『工作員』」と称している(注24)。また、イギリス人歴史家A・J・P・テイラー(A.J.P. Taylor)は「ワイズマンとハウスは『特別な関係』を実現した」と述べている(注25)。
多くの歴史学者は、アメリカとイギリスの「特別な関係」は第二次世界大戦後にNATOと国連ができたことによって始まったと考えている。しかし、テイラーが指摘したとおり1919年のパリ講和会議ですでに「特別な関係」の種がまかれていた。
アメリカとイギリスの政府高官がパリで秘密裏に政策協力に合意し、両国は一体となって動くこととなった。そして、これを促進するために2つのシンクタンクがつくられた。イギリスの王立国際問題研究所(Chatham House)とアメリカの外交問題評議会(Council on Foreign Relations)だ(注26)。
ところが、イギリス人グローバリストにとってとても残念なことが起こった。アメリカの上院が国際連盟への加入を拒否したのだ。しかし、第二次世界大戦とウィンストン・チャーチルの巧みな説得の結果、アメリカは最終的にNATOと国連による世界統治体制に引きずり込まれた。
 
現代グローバリズムの父、ウィンストン・チャーチル
チャーチルの世界政府構想はセシル・ローズやラウンドテーブルの構想に奇妙なほど似ている。チャーチルは英語圏の国々の「特別な関係」を後ろ盾とした「国際組織」を提唱した。
1944年2月16日、チャーチルは「国際組織の範囲内においてイギリスとアメリカが手を組んで特別な関係を築かなければ、再び破壊的な戦争が起こる」と警鐘を鳴らした(注27)。その結果、1945年10月24日に国連が設立された。
しかし、国連は十分ではなかった。セシル・ローズやラウンドテーブルは常に、いかなる世界統治体制においてもその裏で真の覇権を握るのは英語圏連合でなければならないと主張していた。チャーチルも1946年3月5日に行った「鉄のカーテン」の演説でこの計画を踏襲した。
チャーチルは国連には「国際的な武力」も原爆もないと警告し、国連は軍事同盟を結んでいるイギリスなどの英語圏の国々と協力しなければならないと論じた。それ以外にソ連を止められる勢力はなかったのだ。
 
「英語圏の友好的な連帯」
チャーチルは、「国際組織」を機能させるには「英語圏の友好的な連帯」が不可欠であり、「それは英連邦、大英帝国、アメリカの特別な関係を意味する」と述べている(注28)。
チャーチルは話術を駆使して1949年にNATOを発足させ、「ファイブアイズ」協定を結び、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの諜報活動を連携させた。徐々にではあるが、チャーチルはオーウェルがオセアニアと呼んだ世界的な超大国の実現にかつてないほど迫っていた。
オーウェルは「トーリー主義的無政府主義者(Tory anarchist)」を自称し、ソ連共産主義を嫌っていた。その気になれば『1984年』をイングランドがソ連に占領されて苦しめられるイギリス版『若き勇者たち』(原題『Red Dawn』)のような作品にすることもできたが、オーウェルが伝えたかったのはそういうことではなかった(注29)。
オーウェルはそれよりも身近に迫っている危険について警鐘を鳴らしていた。イギリス人グローバリストがイングソックというイデオロギーを信奉する英語圏連合の実現を目論んでいることを警告していたのだ。
現在私たちが暮らしている世界はオーウェルが予見した世界とさまざまな点で一致している。


訳者注記
誤訳や訳漏れがある可能性がありますので、記事の内容を参考にする場合は必ず下記リンクの英語原文に依拠してください。
また、注釈についても原文脚注をご参照ください。
https://richardpoe.substack.com/p/how-the-british-invented-globalism

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