ひとは、なぜそれほどまでに死にとらわれるのか。(コルネの空洞に小倉を注入するかホイップを注入するかを迷うくらいなら両方選ぶのが相殺と思わせるが利休)

ひとは、猫の言葉を知らない。猫どころか、同じ分類とされる赤子の言葉すら知らないままに生きる。

では、猫や赤子らはわたしたちの言葉を理解しているのだろうか。恐らくそれは、理解になく穢れないだけなのかもしれない。
 
 
 
或る日、猫にむかって猫になってみないかと打診する。しかし大概の猫は逃げてゆく。なぜだろう、
これほどまでに簡単なことはないはずなのに。
 
 
やはり或る日、赤子にむかって人間になってみないかと打診する。そうして彼らは、ひたむきに欲望を唱える。しかし真意はよくわからない。
 
 
 
 
死に向かうだろう喫茶店のウェイトレスが、今日もわたしに尋ねる言葉は、

ホイップになさいますか。小倉になさいますかと二択もある。それは、生か死かを選択になく強制という安楽だった。

おまけは柿の種より、カラメルビスケットを好みたい。
 
 
 
 
 
珈琲か、紅茶かは遺伝子によるんだ。
選択できないものが魅力にあるよう。穢れないと魅力を知れないので致し方無い。