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 私を出産したのは朝だった。

陣痛が始まったのは早朝で、母は、出産に備えて夕べの残りのすき焼きを温めて食べてタクシーを呼んだ。

母はタクシーの車窓から、美しい富士山を見たという。

その時「これは美しい女の子が産まれる。」と感じたと私に言った。

胎動が兄とまるで違っていたので女の子だろうと思ったそうだ。

私が数時間で出産できて息んでいたら、「もう産まれてますよ。」と言われたらしい。

退院したあと母と私は父の友人宅に面倒を見てもらったという。

兄は母の弟宅に預けられ、父は入院したらしい。

父は、退院して復職も果たしたけれど、子育ては、母のワンオペだったそうな。

兄と私と母と時々父と。

母は、毎日120枚のおむつを洗って干すのが日課だった。

私は記録しておきたいと思った。

時に表情変えて角度変えて。

父のこともできたら記録しておきたい。

母は、懸命に子育てに取り組んだ。それは果てしなく孤独で、でも近所の人に支えられて、懸命に生き抜いてきた。

私は母に120枚のおむつを毎日洗って干していた話を聞いた。

その時私には想像できなかった。

今もおむつを洗ったことが無いのでまだ想像できないでいる。

私たち家族は、私が4歳の父の転勤まで横浜で暮らした。

愛について考えるとき、私は、自分の家族について考える時間がほしいと思った。

それを許されるときの中で、私は、自分の思い出を書きつつ今の思いや気づきを残したいと思った。

愛。

私は、すでにたくさん感受している。

でもそれを言語化していく作業は、とても楽しくとても難しい。

私は、兄が幼稚園に通い始めた頃、母と兄と私とで百人一首を音読していた。

3人で家にあるもので打楽器にして歌を歌ったり、英語フレーズを覚えたり、母の買ったサウンドオブミュージックの音楽を聴いたりしていた。

私は、その時満たされているのを味わった。確かにあの時愛の中にいた。

時々私を喘息が襲った。

朝も夜も苦しんだ。

薬が効くと踊りを踊れた。薬が切れると苦しんだ。それを何回か経験した。

母は、私に寄り添ってくれていた。夜も私の胸に薬を塗ってくれたり介抱してくれた。

それは重労働だったと思う。

いろいろな夢や希望よりも生き抜いてもらえることが最優先の日々。

母の話によると、横浜では魚のすり身をちぎって油で揚げて私たちはパクパク食べたことがあるらしい。

そして、初めてショートケーキを食べたのは4歳の頃だったかもと思う。初めてショートケーキを口にしたとき私は、ケーキの存在を知らなかった。

だから、ケーキは、初めて食べたかどうかもわからない。

母は、手作りを楽しむ人で私を妊娠した頃毎日医師にストップされるまで焼き菓子を作って食べていたそうな。

私たちが太ったので控えたのは、手作りアイスクリームだったらしい。

私は、横浜でどんな食事だったのか記憶は残って無い。

でも母の手作りは、とても凝っていてレシピを見て何でも作っていた。

母の手作りの入園バックには見事な刺繍が施されていて、幼稚園でこんなにすごい作品を持った兄弟は、私たちだけだった。

父は、一切口も手も出さないで毎日朝ごはん食べて出勤して酒を飲んで帰宅する父だった。

父のことのほとんどを知らない。

父は、一緒に過ごしたけれど自分の話をしなかった。私は、聞くこともなかった。

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