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[#2]夢しか見ない若人と大衆化する大人達、スマホ依存症の僕ら

最近は寒さが増してきて、外出時や起床時の気を削いでくる気配を感じる。

さてこの時期になると、思い出すのは大学受験。2020年のセンター試験は結局のところ、昨年通りの方式で開催されることとなった。

センター試験をまともに戦った人なら、センター試験は1次試験としては、学力を計測するに有効であることを肌で理解できるだろう。ましてや記述式採点を導入しようだの、どう考えてもコストに対してリターンが見合わない。十分機能するものを、想像力やクリエイティブという言葉に引っ張られたのか、あえてカオスにしようとする判断は、もはや陰謀でもあるのかと思えるほどである。

学力に限らず、応用は基礎の上に成り立っており、決して基礎を疎かにしてはいけないことは、人生の教訓として蔓延っているにも関わらず、勘所の悪い大人はいるもんだなと世界の広さを知るのである。

私はこの読み物を読了して、大変記憶に残っているエピソードがあるのだが、それは筆者が担当する講演においてどんなに地道な積み重ねが大切で、近道はないと説明しても、オーディエンスに「でも魔法の抜け道があるんでしょ?」と講演後に必ず質問される話である。(一部内容が違う点もあるかもしれないが趣旨は概ね同じである。)

人間は近道を探してしまう。本能的で自然であるのだが、使い方を間違えては神様に怒られる。欲望は怠惰のために使うのではなく、向上のために使わなければ、少なくとも社会のためにはならない。

好きなことで生きていくという嘘

現代社会はInstagramやYouTubeの台頭により、より煌びやかな世界が日常に垣間見えるようになった結果、中途半端に声のでかい人がそれっぽい振る舞いをするようになった。例えばNewsPicksが全てだというブランディングをするのが、ビジネス的には正しいかもしれないが、そんなことは真実ではない。それにも関わらず、間違った価値観に頭を抱える人は多い。

過去にアニメ制作の負担をテクノロジーで解決しようと試みる経営者とお話をしたとき、いまの大学生は本当に景気が良いよね、という話題になった。しかし、この言葉の裏には皮肉や異常のニュアンスが感じ取れたように思える。

核論に入るのだが、好きなことをするのはビジネスの本質ではない。私はそう考えているし、多くの賢人達はそう説明している。ではビジネスの本質とは何であろうか、それは奴隷のように相手に仕えることなのである。

この考え方を古臭いと拒絶する人がいるならば、一度考えて見たらいいと思う。私たちの生活周りには、様々な奴隷が姿形を変えて存在することを。たとえばコンビニやスマホ、ファミレスの店員などだ。店やテクノロジーから人までサービス業の本質は、役割としての奴隷たる存在にある。この文章は言われてみれば感覚的に理解できるだろう。彼らは私たちに滞りなくサービスを提供してくれ、文句ひとつ言わず仕事をこなすのだ。

もはや当たり前過ぎて何も考えなくなってしまった現代人だが、やはりコンビニは使うし、スマホも使う。コンビニやスマホが何か私たちにエゴを主張しているか尋ねて、はいと答える人はいない。コンビニは平凡で退屈な空気のような存在であることに全てが集約される。

ビジネスとして成功するには、この基礎が必要条件になるのではなかろうか。そう考えたときに好きなことで飯が食えるというのは、幸運なことであり、一時的な経済状況に過ぎないのだ。

この動画を見たことがない人は見てほしい。彼の主張はこうだ。人が求める数によって経済価値が決まる。これは私が主張したいことの一部である。つまりあなたが飯を食えるかは、あなたが決めることではない。決定権を持つのは、利害関係者であり、広く言えばマーケットなのだ。

この話を書くたびに思い出す話があるのだが、大学2年生のとき、美大の友人がクラウドファンディングを始めた。渋谷でプロジェクションマッピングを企画したり、芸術展を開催したいという趣旨だった。社会的にも悪くないし、まぁ似たようなプロジェクトはたくさんあるからそこそこ頑張れるのではと思っていた。結果は惨敗し、結局中止になってしまった。しかしこの友人は悔しかったのだろう、何か上手くいく方法はないかと考え、渋谷のスクランブル交差点で集客をしたり、スタジオを貸してくれる人をTwitter上で募ったり、わりと権威ある大人とも運良く関係を作り、2回目には目標金額に見事到達した。

そして私は再度思わされたのである、社会で認めれるために必要なのは、単なるクオリティではなく、コネクションや魅せ方なのだと。結局は、周りがどう評価するかであって、あなたが好きか嫌いかに依存することはほとんどない。必要なら買うし、いらないなら買わない。ある種薄情なのが人間だ。

だから若者がこんな素敵な世界をつくりたい、だから起業したんですという人を見ると、あぁ時代の変化に悪影響を受けた人間だなと思う。もちろん何もしないやつよりは偉いのかもしれないがね。

だから結論として、好きなことで生きていく、というのは景気が良い?今だから理解される考えであることを肝に命じる必要があるのだ。

大衆化する大人たち

私たちは仕事をしてお金を稼ぐ。もちろんその使い道は個人によるのだが、貯蓄に回す人が多いようだ。私たちの生活は十分低コストで潤いを満たせるようになった。Netflixやyoutubeを見ていれば、たくさんの刺激に溢れる。その先のことなど考える必要もない。明日がいつもと同じように来ることを願って、ぼんやりと過ごせば給料は入ってくるのだから。

日本国の問題は、雇用の流動化が起きにくい点だと考えられることが多い。もちろん生産性の無い人間が、破格の給料をもらうこともあるだろう。しかし、10年も経てば自分もその旨味を得ることがわかっているなら、あえて口を出さない方が賢い。

このように雇用システムは、みんなが順番にバランスよく享受できることで成り立ってきた。だから一億総中流社会と呼ばれ、そこそこハッピーに時代を乗り越えてきたのだが、陰りがさしているのは言うまでもない。IT社会は、明らかに光を放ったが、既存のシステムの痛いところも同時に指摘してしまったのである。

未だに簡単なプログラムでさえ実行できる仕事が多く存在する。たとえ無駄や生産性が皆無だと分かっていても変えられないのだ。それはまず一つに雇用制度のシステム上の問題、次に人間心理としてのリスクを怖がる恐怖心、さらには現代のサービスの恩恵がもたらす怠惰の助長による。人間関係のしがらみもあるだろう、申し訳なさもあるかもしれない。とにかく様々なファクターが私たちの経済活動にマイナスにフィードバックを掛けていることを見て見ぬふりをし続けているのだ。

スマホ依存症

スマホの利用時間を制限する条例素案として出されているようだが、甚だ現実味のない世界である。スマホの普及は世界を変え、私たちの生活の一部になった。メリットやデメリットも存在するのだが、この事実とどう向き合うべきだろうか。

もちろんこんなことを考える人は、周りにそう多くはいないだろう。多くの大衆はスマホ中毒になることを認めてしまった。しかしこれを読んでいる読者には選択の余地が残されている。道具を手段としてみるか、または道具の虜になるかを。

この2冊は是非とも読んで欲しい。これらの本が教えてくれたのは、社会的な観点から、私たちの怠惰な態度は後に大きなミスだと認めることになる話と、脳科学的な観点から、Facebookのいいねは承認という病であり、それは麻薬・薬物に匹敵するほどの依存性を持つことだった。

かくいう私もスマホから多くの恩恵を享受しているのだが、仕事柄や環境的に触れる機会が多いということもあり、完全に無に帰すことは些か現実的ではない。それゆえにスマホを有効活用する方法についてまた別の機会に書いていこうと思う。