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[#5]Uberが変えた世界、偶然には耐えられずストーリーを描く、ストイックの先の不幸...

今週世間を驚かせたのは、次のニュースであっただろうか。

ぱっと見ると桁が違うと思わされた。しかし冷静にざっくり推定すると別に不思議ではない。インドの人口は約13億人、都心の人口を日本と同じ程度で考えると全人口50%の6.5億人。これだとあまりに多い感触がするので、暫定的に20%ぐらいに減じて、インド都心部人口は2.6億人。この数値を信頼すると、20人に1人ぐらいが、一週間に一回Uberを使う計算になる。これは現実的にありえる数字であろう。まあ結局は母数と皆が移動手段に対していかに無駄を積み上げてきたかがわかるだろう。Überは上場後、株価の上下を経験しているが、ここで一段と上昇してきたように見える。

Uber's plan to get more people into fewer cars | Travis Kalanick (from TED on Youtube)

Überと聞くと、想起させるのは次の事実である。これは有名なので知っている人も多いであろう。その事実とは、人々は96%の時間は車を利用していない。すなわちたった4%の稼働時間のため空間を車に占有されるという事実だ。確かに移動手段としての自動車は、公共交通機関である電車と比較して台数が多い割に、稼働時間が短い。またインターネットの成長に伴う多様な働き方やライフスタイルの変容に伴って、自動車の活躍する場面を変化させているのは事実だろう。日本に限って言えば、都心に住んでいる限り、自動車の必要性は低く、電車や他の手段で事足りてしまう。あえて大きなアセットとしての自動車を手に入れる人間は減るのではないだろうか。そんな世界が大きく蠢く中、Uberは見事にその非効率性をビジネスに変換させた。素晴らしいの一言であり、感動的である。

今週の一冊

自己啓発本を読む目的は、それらに基本的に書いてあることに共通項が多いので、知識を得るよりは、知識を再確認する意味合いが強い。それゆえ、飛び切り大事な何冊かを保管しておけば目的は達成される。さらに、自己啓発は上手い話、綺麗な話も多いので、その類は一切参考にしてはいけない。この前提を元に本を選ぶのだが、以下の本は少しテイストが違う本である。

この本のポリシーを説明すると、”世の中で言われていることに猜疑心を持ち世の中の定説を覆す”、ことである。詳しい詳細は本を読んでくれればいいのだが、次に説明することは知っておいて損はないと思うので紹介しようと思う。意味がないものに意味付けをするのが人間である、という事実だ。これを説明するに当たって、私が浪人時代に物理講師に質問された質問をそのまま引用しよう。”木に赤いリンゴが実っている。なぜあのリンゴは赤い?”

この質問は、一度はよく自分の頭で考えてみるべきだ。よくある回答は、"繁殖に際して、鳥に見つけやすくしてもらうため"などである。この手の回答は、頭に思い浮かぶだろうが、実はこれ自体が人間の思考の癖なのである。ここからは冷静に分析してみよう。まず大前提として植物にリンゴを赤くしようとする"意志"は存在しない。なぜかそれは植物に脳はないからだ。では内部的に意図できないとしたら、外部的要因で決定される他ない。この場合では、宇宙から放射線が降ってきてリンゴのDNA配列を破壊し、たまたま赤い実に変化したリンゴ亜種が生き残ったのだ。

端的にまとめると、たまたま外的要因で変化したら、うまく環境にハマったが答えになる。これを現実的な場面で理解できる人はそう多くはない。私も意味がないものに、不要に意味付けすることがある。それは誤った判断になるので、私たちは注意を払うべきである。

新宿に”龍の家”というラーメン屋があり、昔はよくその付近を通っていたのだが、本当に行列が耐えない。平日の昼でも階段にたくさんの人が並び、平日の夕方17時頃が唯一、並ばずに入れる時間帯である。ではなぜこのラーメン屋が行列が耐えないのだろうか。少し考えて欲しい。答えは単純で行列ができるからである。行列ができているから行列ができるのである。もちろんラーメンは美味しいだろう。そして創意工夫がたくさんなされているのだろうが、結果的には人気だから人気なのである。ちょっと系統は違うが、上の論理と似た系統があるのがわかるだろうか。

この本などが、その辺りを解説してるので、ぜひ知りたい人は読んでみるといい。私たちは意味のない物に意味を加え、自己解釈してしまう生き物なのだ。

ストイックの先の不幸

私の知り合いで、開発会社の経営者がいる。人望が厚く資産や名声的には、年齢に合わずとても素晴らしい物をお持ちの方なのだが、こんな悩みを打ち明けた。「このままストイックに頑張っても、結局なんのためになるんだろうね...」と。元々外資系証券会社上がりのスーパーエリートの方なので、仕事や趣味に対してもストイックに臨む。だからこそ、ヌルッとした人生は許せない感はあるものの、頑張り続ける人生に疑問詞をしていた。私が、彼に何かアドバイスできる分際ではない。そして、私も同じようなことを思う。

インターネットが世界をフラットにし、CPUの性能が処理能力が上がった結果、陳腐な言葉であるが本当に多様性に富んだ社会になった。YoutubeとNetflixとSpotifyと数人の理解者がいれば十分人生は楽しむことができる。それも圧倒的な低額なコストで。”賢い人”はそれを理解しているから、あえて挑戦することなどしないのだ。

いっそのこと思考停止になって、何も考えず田舎で時間軸を遅くして、暮らしていた方が幸せなのではないかと本気で思う。その理由は、結局のところ幸せとは平凡な日常が明日も続いていくことだからだ。

野村克也さんは野球好きにとっては大きな存在だが、やはりいつかは亡くなるのが、予定調和で決まっている。どんな偉人もいつかは亡くなるわけで、いくら社会に功績を残そうとも、3日も経てば社会は忘却をする。人間は忘却という技を覚えたから、物事を前進させれられるのだ。そして一人の人間が亡くなって、大きな影響を受ける社会は、良い社会とは言い難い。一人の人間に依存する社会構造など誰も期待しない。

それゆえ、私たちは確かに資本主義を進め、経済や市場を成長させてきた一員であることは間違い無いのだが、所詮はただの一人に過ぎないのである。