大衆の反逆

最近は語学学校で会った韓国人の友人とよく外で酒を飲むのだが、日本のニュースを逐一チェックしている身としては、互いに母国に居ない分余計にそのことについて話すことが多い。お互い母国について思うところはあるがそれについてはいい。しかしこと日本における議論が憚られるような環境は考えものである。歴史的事実はさておき、声高に主張される言説はある一定の方向を向いており、それらは大抵の場合、一般の、普通の市民の意見だと注釈される。それも普通の市民によって。普通の日本人ならこう思うはずだ、一般市民ならこう考えて当たり前だ、この傲慢さこそ、オルテガ・イ・ガゼットが看破した大衆の反逆そのものである。それを実際に目の当たりにするたびにガゼットはいかにしてそこに思い至ったか思いを馳せる。他者に対しての同一性の強要、あるいは多様性の無視こそが大衆に許された特権でありながら憚られるべきものであり、それを当たり前に為政者が発言することこそ問題である。注意深さを無くした人間に何が待ち受けているのか、それもまた歴史が証明しているところでもある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?