平野啓一郎「空白を満たしなさい」

平野啓一郎「空白を満たしなさい」を読んだ。この小説は、死んだ人が生き返ったらどうするか、という荒唐無稽な思考実験という趣があって、その時に生ずる問題や社会現象としてどのように推移していくか、また実際に生き返った人間がどのように振る舞うのかというのが想像されていて、そこがとても小説的だ。生き返った主人公の死因は自殺で、本人はそれを否認している。当然なのだけれど人間は死の直前までしか経験できない。それで主人公は死の瞬間を探り始める。はじめは事実の否認から入り、自分が自殺したのだと受け入れるまでに長い時間がかかる。そこから人間はどういう状態だと自殺するか、ということについてある仮説を立てる。
主人公が自殺したことを受け入れる際に現れる「分人」という概念は作者自身が提唱している。それを登場人物に語らせるのは、自己の論理の小説を通しての実践である。一度死んだ人間が自分が死んだ理由に関して、「分人」という概念について饒舌に語る、というのは確かにありえるかもしれない。ずっとわからなかったことがわかった、とすればたとえそれが自分の自殺の原因であっても軽い興奮を覚えるだろうか。その概念は客体化された死んだ自分を見つめるための眼鏡であり、それを語らせるなら確かに生き返った自殺者は適しているだろう。もっとも対極的な引き裂かれた分人が成立しうるからだ。自己を断罪しつつ罰せられる自己でもあるがゆえに自殺は起こりうるということをゴッホの自殺についての考察を通して語った点がこの小説の一つの頂点であるだろう。自傷行為が人によって、くせになり常習化するのも、それが自己を罰することで得られる救済の感覚のためであるように思う。また、関連して引用されるボードレール「悪の華」の一節が素晴らしい。

僕は傷口であり、ナイフだ!
僕は、殴る拳で、殴られる頬!
引き裂かれる四肢であり、引き裂く刑車だ!
そして僕は、死刑囚にして、死刑執行人なんだ!


もう一点、主人公にとって出会う人物のそれぞれが、一つも確かなものが存在しない、よくわからないもののように断片的にしか記述されない。そしてそうした人たちがいなくなったりして、あの人はこんな人だった、とか、やはりよくわからなかった、と思いを馳せたり、印象が変わったりする。そういう心の動きは、この本を読んでいる間に何度も起こって、そのことは読書している時に装置のように存在している人間と違っているように感じられて、何か新しいものを読んでいると感じられた。

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