3-4

高校に上がったKは大いに青春を謳歌したようである。それは若い美術を受け持つ担任教師が持ち込んできた、自治の思想によるところが大きい。命令系統は存在しないという建前のもと、彼らは議論によって、何をすべきかを決める。例えば文化祭は何のためにあるのか、担任教師と学生はそこから考えなくては気が済まないのだった。我々学生の学費を支払う親たちのために、その活動の成果を見せるのがひとつ、これから高校を受験する生徒たちにこの高校に通いたいと思わせることがひとつ、後者はその目的が学校の運営維持であり、言うまでもなく動機は愛校精神だった。Kは美術部員として大きな書き割りの立て看板を用意し、生徒数の増大によって新しく出来たばかりのその学校の、当時はまだ存在していなかった校章をデザインした。文化祭の初日に合金で鋳造された校章が、校舎の玄関口に披露される催しがあり、R子は得意の絶頂であった。
卒業の間際には家の物置を使ってK自身の書きためた油彩画の展覧会を開催した。多くは風景画と静物画である。土手から捉えた夕闇に沈む川面や、その日に食卓に上るであろう鮭と柿などは、作風の面ではまだ具象絵画の域で、構図に工夫が見られる。が、画面の使い方の点ではキャンバスの大きさに対して、対象物の大きさが小さく感じられるところがある。その構図と大胆な抽象化によって画面全体の締まりを意識するのはまだ先のことだった。
友人たちと夢を語りあうことは無上の喜びであったろう。しかし、Kには気がかりがあった。自分の華奢な手と腕で、生きるために母のように労働に従事することと、自らの希望、画家になることとの間の埋められない溝を感じるのだった。それはシベリアにて抑留された香月泰男や、放浪の旅を経て作風を確立した砂澤ビッキのような、彼の憧れる画家たちのような経験を自分がしていないということであり、描くことへの切実な動機の探求を保留して、彼は大学に進学することを決めた。
既に学生運動の全盛期は過ぎていたが、白けた空気が北海道に届くにはまだ早かった。A市ののどかな学生自治運動のなかでは、一部の暴力行為もあるにはあったが、それは過激行為とは一線を画す、人間同士の衝突に留まっており、まず革命という文言は一種遠い世界の出来事として捉えている学生がほとんどであった。なぜなら彼ら学生はほとんどがこの北海道出身であり、貧しい家庭から期待を受けて進学するのである。高校時代からの仲間が繰り上げられてまた少し離れた地方の学生と合流するそれは、路地から続き、いずれは路地に戻るものであるとKは考えた。では何を主たる争点としていたかといえば、学費値上げである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?