欧州紀行4

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キャラバッレはBright valleyという意味の土地で今回は2度目だが前回のホテルの地下とはうって変わって郊外のレストランの離れが会場だった。基本的にイタリアのライブは始まるのが遅く、夕食を食べたあともしばらくは歓談する。レストランであればなおさらだ。エドアルドが突然、日本にある3種のアルファベット、漢字、ひらがな、カタカナの違いや日本語の文法について尋ねてきた。彼にとっては見慣れない文字、また漢字の成り立ちについて話しているうち、話す言語によって性格まである程度規定されるという話になった。言語は世界を規定する方法であって、その方法はどのように世界や生活を規定するかによる。フランスで会った日本人の友人は、外国語では悩むことができないと言っていた。彼は日本での深刻な神経症をフランスに移住することで解決した。
ものを考えるときどの言語を使うのか、というのはそれ自体で答えの出し方が変わってくると思う。もちろん自分は日本語でしか考えられないが、それがかなり自分の行動様式を規定しているように感じられる。外国に行くと確実に脳のふだん使わない部分を使っていると感じる。それは例えばエドアルドにひらがなとカタカナの違いを英語で説明するとき、無意識に使っている抽象的な概念をどう説明するか、ひらがなのひとつひとつの読みをアルファベットに当てはめるとき、それは古く硬くなったネジに根気よく油をさして滑りをよくするような作業だ。
言語の話からエドアルドはarrivalという映画を勧めてくれた。それは言語学者の女性が、地球外生命体の、言語らしきものを解読するという話らしい。それを見て彼は泣いたと言った。おそらくその感動は、どの言語でもなかったろう。彼は説明しようとしなかったから。

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