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既に残った事業者は少なく、そのいずれも農業以外の労働に従事しなければ生活は成り立たなかったが、それでもS夫の家はましであった。優先的にまわされる仕事に困ることはなく、むしろ農作業を圧迫する事態に陥っていたが、それでもなおS夫は農業にこだわった。それは単純に、そのほうが自分に合っていると感じていたのである。人間を相手にするときの摩擦は出来るだけ避けたかった。S夫は久しぶりに終戦後にはじめて顔を合わせたときの兄の姿を思い起こした。S夫が移住してから、一度も会うことのなかった兄は、娘たちの誕生を報告するたびに祝い金をよこした。冬にはその年の収穫を送ってくる。それは息子たちにとってはまだ見ぬ遠い土地の親切な縁者であり、たびたびそこへ行きたいと息子たちは言った。そのたびにK美は、いつかね、と答えるのだが、それがいつなのかなど誰も知らなかった。
事業撤退の噂が流れてからの動きは早かった。S夫のように市街地での仕事をしつつN市にしがみついていた少数の開拓者たちは市街での労働で情報交換をしていたが、彼らはそれぞれに次の仕事を考えざるを得なかった。それはN市に残って、工務店や大工仕事の真似事をしながら生きていくか、出資していた鉄道会社が斡旋する線路設置の作業に従事するかということであった。しかしながらあくまで斡旋は噂であって、いずれにせよS夫は自らの仕事に従事する以外にはなかった。
A市に帰ったN美とY美はそれぞれ忙しく日々を過ごしていた。それは青春の只中の、夏の森のやかましさに似ていた。N美はKの絵画のモデルなどをしながら、夜通し話をすることが増えた。高校に上がったM季が起きて朝食をとりに行くとN美がR子と準備をしていて驚かされたことがある。N美には集団に入るとはじめからそこに溶け込んでいるのが当たり前のように感じさせる不思議な雰囲気があって、本人はいたって引っ込み思案な割に側から見ると豪胆なところがあった。
Y美は看護学校に通いながら頻繁にOと連絡を取っていたようである。Oは学生運動のリーダー格であったから、さほど会う機会があったわけではなかったから、もっぱら電話で話すことになった。Oは下駄履きで近くの公衆電話に行き、Y美の学生寮に電話するのだが、月の電話代がえらいことになったとKに嘆いていた。Y美は看護学生だけにOの身体のことを心配しており、電話での会話は時折事務的になる。Y美は虫歯の多かったOを歯医者に通わせることに成功した。そのころ学生間ではOが急に身なりが小綺麗になったと評判になった。しばらくして学費値上げ反対闘争の甲斐はなく、国立大学の学費は一律値上げが決定された。物価上昇はゆるやかなものではなく、もはや爆発的に、階段の一段のように駆け上がる只中にあって、季節ごとに変わっていく生活の質はKたち若者にとって目眩を覚えるほどであった。それは後ろを振り返る余裕を与えず押し流すようであり、その中でKもN美も、いずれは所帯を持つという感覚はそうした上昇する機運のなかで自然と起こった。

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