陸奥宗光の再起。その1

渋沢栄一、陸奥宗光の留学費を工面する。
 1884年と言えば明治17年、西南戦争から7年がたち、明治政府にとって喫緊の課題は憲法の成立と国会の開設だった。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允も今は亡く、前の年に岩倉具視もこの世を去っていた。明治維新の第1世代の指導者はもういない。政府の中心は参議兼宮内卿の伊藤博文、参議兼外務卿井上馨、そして参議兼内務卿の山県有朋の3人で、大隈重信は3年前の明治14年の政変で下野していた。
 伊藤は1年半に及ぶ憲法調査を目的とした欧州旅行から帰国したばかりだった。日本という近代国家の骨格は伊藤の頭の中にしっかりと描かれていたようだ。しかし問題があった。国のリーダーとなるべき人材が足りないのである。憲法はつくる、2院制の議会もつくる。貴族院議員には基本華族を充てる。その為に華族令も発し、公家、大名、維新の功労者に公候伯子男の爵位を叙すことにしていた。一方衆議院は選挙で招集するが、これには期待できない。既に板垣退助の自由党が政党としては有力だったが、どのみち壮士的な人物か、地方の有力地主の代表のような者を吸い上げてしまうだけだろう。日本を近代国家として構築するためには論理的で合理的な思考と指導力を発揮できる人物、つまりは英国人や仏国人、米国人の外交官や商人と互角に渡り合えるような人材が欲しかった。そうした人材育成のために東京大学を帝国大学として強化し、外国人教授も採用するが、ここから有力な人材が出てくるには時間がかかる。太政官制は廃して、政府から公家は一掃する。内閣制は、より行政の専門性を反映させ、地方の利益より国家の利益を優先させる。そのため内閣総理大臣の権限も強化する。指導力が重要だった。そのことを伊藤はプロシアのビスマルクに学んだ。内政、外交、軍事力を一元的に管理する能力が必要だった。勿論、伊藤は自分自身にはその指導力があると信じていた。しかし自分だけでは足りない。井上馨は同志と言っていい関係にあったが、彼の不平等条約改正交渉は暗礁に乗り上げていた。山県有朋は陸軍の構築に道半ばであり、内務卿として警察機構と地方行政の統括で手一杯の状態にある。1884年、明治17年の日本は未熟で脆い近代国家だった。
 そんな年の正月下旬に45歳で東京商法会議所会頭であり、第1国立銀行頭取であった渋沢栄一はふたつ年上の内務卿山県有朋に呼ばれた。
「これは伊藤、井上両参議とも話し合った上のことなんだが、、、
足下は陸奥宗光という人物をご存じであろう。あれが昨年4年半の禁固刑か
ら釈放された。彼を2年ほど欧州へ遊学させたいと思う。ついてはその費用
を集めてもらいたい。それも極秘でやって欲しい」。
如何ほどのご予算ですかと尋ねると1万円ほどだと言う。
当時の1万円は現在の2億円ほどになる。渋沢にとって、こういう政府からの金の無心には抵抗があった。即断って去っても良かったが色々疑問もあったので、考えておきますとだけ答えて辞去した。直接山県に疑問をぶつけても良かったが、どちらかと言うと、建前論一点張りで、腹蔵なく話し合うといことが苦手な山県から本音が語られるとは思えなかった。
近頃、渋沢はその立場から様々な建議を政府に提出していた。国立第一銀行の業務だけ見ても全国の国立銀行との提携協力関係から朝鮮李王朝への投資問題まで政府と関係しないものはなかった。東京商法会議所としても各種の貿易関税の問題で輸入税率を上げて欲しい商品もあれば、輸出税率を下げて欲しい産品も業界別にあり、それらの要望を会議所としてまとめて建議するケースも増えていた。最早、政府と商人の関係は江戸時代のような「ご無理ごもっとも」な一方的なものではなく、妥協と利害の一致が必要になっていた。
 渋沢は陸奥宗光のことは大蔵省租税頭兼改正掛の頃から知っていたが、その人品骨柄は実業界の朋友である古河市兵衛から多く聞かされていた。
 古河は幕末期の大店小野組の大番頭であり、奥州産生糸を一手に扱っていたが、維新後、三井とも手を結び三井小野組合銀行を設立する。だが三井側と小野組側の折り合いがつかず、両者を統括する役割を渋沢に委任することで国立第一銀行として再出発していた。その後、小野組は倒産、1875年古河43歳のときに古河機械金属を立ち上げ、1882年に廃坑していた足尾銅山を買い取り、新しい銅鉱脈を発見した。
 古河は小野組の番頭だった頃、明治政府外国事務局御用係24歳の青年陸奥宗光と知り合っている。古河は自分にはない才能を持ったこの12歳年下の陸奥という人物に惚れ込んでしまった。陸奥が謀反の罪で投獄されていた間も毒殺を警戒した古河は監獄に毎日食事を差し入れしていたという話も伝えられている。さらに陸奥の次男である潤吉を自分の養子にする約束までしていた。京都で豆腐の行商から身を起こしたと言われる古河市兵衛には己の愚直さを誇りにするところがあり、商売人の心得として「運、鈍、根の教え」をいつも口にしていた。そんな古河が後に「カミソリ」と言われるような陸奥という知性に生涯惚れ込んだ。
 渋沢栄一は静岡で会社組織を開設した頃から小野組とも親しかったから古河市兵衛とも長い付き合いだった。古河の浮き沈みも良く承知していたし、好ましく思ってもいた。だから陸奥の話は何度となく聞かされており、陸奥本人とも何度か会っている。
「それにしても」と渋沢は首を捻っていた。「なぜ、山県がこの件を自分に直接依頼したのか」という疑問だった。伊藤博文とは大蔵省以来の関係だし、井上馨に至っては渋沢の直属の上司でもあり、共に大蔵省に辞表を出した仲でもある。なぜ、極秘と念を押しながら、山県を巻き込み、ましてや山県を自分との窓口にしたのか。つまり、これは「公式の極秘」なのだと渋沢は理解した。私的に伊藤なり、井上が陸奥の留学費用を調達するのではなく、山県を含めた政府中枢が財界に対して公式に費用を調達するということなのだ。政府が財界に借りをつくる。しかも、陸奥という出獄間もない元謀反人の欧州留学の費用を出させようというのだ。今まで渋沢は新しい会社の出資金の調達なら何度もやった。資本家たちに出資金が生み出す将来の利益の話をすれば、事は足りた。しかし今回は違う。投資先は人なのだ。しかもその人物が将来出資者に利益を還元する保証はない。ただし、今や政府の中枢にある伊藤、山県、井上には貸しを作ることは出来る。それだけに出資者は慎重に選ぶべきだと渋沢は考えた。そして直ぐに出資者のリストを作って、山県に返答した。山県は伊藤、井上と相談してリストは出来上がった。
或る人 5000円
古河市兵衛 2500円
渋沢栄一 1500円
三井 1000円
原善三郎 1000円
合計 11000円
 このリストは渋沢から三井銀行副長西邑虎四郎に宛てた手紙の添付資料として同封されていた。手紙には三井から日本銀行理事になった三野村利助に話は通してあるので私(渋沢)の元に1000円届けて欲しいとある。勿論、使途は陸奥の留学費用だと明記されていた。或る人とは誰か。名前は表に出せないとなると、やはり伊藤、井上、山県が国庫から供出したと考えるのが妥当だろう。古河の2500円は陸奥との関係から当然だし、まとめ役の渋沢も1500円程度は出さねばならない。三井との関係は井上馨が最も深く、利助の父大番頭三野村利左衛門とは渋沢が静岡で合本会所を運営していた時分からの付き合いだった。唐突な感じがするのは、原善三郎の存在である。
 原善三郎はこの頃、第2国立銀行初代頭取、横浜商法会議所初代会頭を歴任していた。横浜における生糸貿易の中心人物と言っていい存在だった。横浜開港の3年後、1862年に生糸売込問屋「亀屋」を開店してから22年間、故郷武州周辺の生糸産地を背景に輸出生糸取扱高トップの座にあり続けた。明治4年に神奈川県令として赴任した陸奥宗光との面識もあったし、同じ横浜で生糸貿易業を営む渋沢喜作を通じて従弟の栄一も知っていた。明治政府に対しては東京と横浜の財界の代表として共に協力する関係だったと言っていい。
 つまり、陸奥宗光の留学費用を出資した人々は、この年41歳となる陸奥宗光という人物の力量を良く承知していた。そしてこの出資が政府中枢と経済界の中心的人物との合意で行われることの意味を理解していた。しかし、この合意は陸奥本人には知らされなかったようだ。そもそも陸奥に欧州留学を勧めたのは伊藤と井上だった。彼らは特赦を得て出獄する陸奥をすぐそのまま政府に迎えることはできないことを承知していた。強く反対する人物の存在があったのだ。明治天皇である。

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