陸奥宗光の再起。その2

謀反の動機は何だったのか。
 西南戦争前夜、明治天皇は孝明帝の10年式年祭と京都・神戸間の鉄道開通式典のため京都の行在所にあった。同行したのは三条実美太政大臣と木戸、山県、遅れて大久保が参じた。近くにある護衛兵力は大阪鎮台だけである。この機会に土佐立志社の大江卓と林有造らが武力蜂起し、大阪に攻め上る。これを陸奥が率いる和歌山県の徴兵団が支援する。兵力がそれほどの規模に達しない場合でも少なくとも何人かの政府要人を暗殺する。それが大江、林、陸奥の策謀だったが、その計画の全貌は政府に把握されていた。大江、林をはじめとする立志社のメンバーと陸奥は逮捕され、裁判を受け、投獄された。
 この時、明治天皇は25歳。維新以来少年の頃から親しんだ西郷隆盛が鹿児島で挙兵したこともショックだったが、防御も手薄な京都行在所で土佐の挙兵計画とそれに元老院議員幹事である陸奥が関与していたことは忘れがたいものになった。さらに、この頃天皇に直接学問の指南をする侍補がおり、その中に土佐出身の土方久元や佐々木高行などがいて、特に佐々木の陸奥評は辛かった。「軽薄」だというのである。陸奥の性格の短所として、この軽薄という印象は他の人々の口からも度々出てくる。明治天皇はこの後、日本帝国憲法が発布された1890年、山県有朋が内閣を組閣したときも農商務省大臣に陸奥宗光の名があることにも難色を示している。1877年における陸奥らの謀反計画が明治天皇の記憶から消えることはなかった。
 それでは、政府に対して謀反人たる罪を負った陸奥宗光に多額の留学費まで工面して、将来政府の中枢に再起用しようと目論んだ伊藤や井上の陸奥への評価は如何なるものだったのか。まず、陸奥の背景を見てみよう。陸奥の出身は徳川紀州藩である。父は勘定吟味役まで務めたが幕末内部抗争に巻き込まれて退隠している。宗光は良く知られているように幕末坂本龍馬と行動を共にした。龍馬と宗光の出会いは、勝海舟が主催する神戸の海軍操練所であった。
 陸奥は坂本に心酔していたが、その配下となった亀山社中・海援隊と人々とはなれ合えなかった。心情的に仲間に馴染めない、浮いた存在だった。それでも知的好奇心は旺盛だから、長崎の通詞何礼之の塾ではフルベッキから万国公法や英語を学んでいた。また、トーマス・グラバーを通じてイギリス、清との貿易実務にも通じていた。坂本と行動を共にすることで、土佐の勤皇派とも深く関わり土佐系の人物という印象を薩摩や長州の志士たちに与えた。
 陸奥がその存在を強く朝廷に印象付けたのは、ひとつは維新以前、慶喜の大政奉還後に英駐日公使パークスと通訳官アーネスト・サトウと会談し、朝廷に対して在日欧州各国の公使と面会し、外交の主体が徳川幕府から京都朝廷に移管したことを宣言すべきだと建議したことだ。後に朝廷はこの建議を受け入れ、実行に移すことになる。もうひとつは幕府がアメリカに発注した甲鉄艦ストーンウォール号の引き渡しである。アメリカは戊辰戦争に対して局外中立の立場に固執し、新政府への同艦の引き渡しを拒否した。また艦の購入代金の残高10万両が残っていた。陸奥は先ず、この10万両を鴻池屋など大阪商人から工面し、アメリカ側と交渉した。この艦の発注は日本政府が行ったことで、その政府が幕府から朝廷に返還されたのだから所有権も当然移譲されるべきだとした。さらに、アメリカが納得しないのであれば日本駐在の各国公使との会議を持てば良い。但し、この艦の所有権の移譲を認めないならば、政権の移譲も認めないということになり、新政府としては、徳川幕府のアメリカに対する今までの負債の一切を継承しないからそのつもりでいて欲しい。結局、アメリカ側は艦の引き渡しを承諾した。
 大阪の豪商から資金を調達する交渉力、アメリカに対する国際公法に則った論理的なしかも脅しも含めた説得力、それは初期の明治政府中枢にいた人物たちを感心させるに十分な実績だった。時の太政大臣三条実美なども陸奥の手際に感心し、その感想を右大臣岩倉具視へ手紙で送っている。朝廷の公家出身者などに真似のできる芸当ではなかった。但し、理想主義者であり、軍事力の信奉者であった西郷隆盛や国家の基本構造を構築することに急いでいた大久保利通にとっては商人や外国人と交渉できる能力に対する評価は低かった。そして、その評価の低さを陸奥宗光自身が自覚していた。陸奥に対する評価が唯一高かったのは木戸孝允だった。欧州視察旅行から帰国した後の木戸は西欧の優れた産業力を評価しながらも、西欧の植民地政策を批判的に見ていた。万国公法などと言っても、結局は欧州諸国の利益を守るだけの方便に過ぎないのではないか、木戸は懐疑的な見解を抱いていた。自国の国益を優先するためにこそ外交がある。そういう前提条件を木戸と陸奥は共有していた。
 西南戦争前夜の状況は、強大な薩閥がふたつに割れ、薩長間も離反する可能性があった。少なくとも陸奥からはそう見えたし、クーデターとまでに至らずとも政権の改変の好機としてとらえたとしても無理はない。陸奥は藩閥政府を解体し、能力主義の政権運用を考えていた。それは渋沢栄一の長年に渡る信念とも、福沢諭吉における反身分制度的信条とも同調するものだった。

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