渋沢栄一の何がそんなに偉かったのか。

政財界、そして軍部のトップも列席した渋沢栄一米寿祝賀会。

  大河ドラマも明治期に入りましたが、クライマックスでは何歳ぐらいの渋沢を描くのでしょうね。
   私は1928年(昭和3年)10月1日に米寿の祝いを帝国劇場と東京会館で迎えた渋沢がまず目に浮かびます。参加者1100名、 来賓には時の内閣総理大臣田中義一を筆頭に国務大臣が並び、各国の大使も招かれました。中には、東郷平八郎、山本権兵衛、高橋是清、後藤新平、幣原喜重郎と錚々たる顔ぶれもいます。総代は団琢磨(三井合名会社理事長)が務めました。財界、政治家、軍人のトップが勢ぞろいしているわけです。
 田中首相の祝辞は原稿を読み上げるものでした。そのあとに渋沢の答辞がありました。40分ぐらいの長い答辞でして、どうも原稿なしで語っているようです。深谷で鋤鍬を振るっていた少年時代から振り返って、土地の代官からの御用金の申し付けを受け、その態度に憤慨したこと。尊王攘夷に走ったこと。そして平岡円四郎と出会い一橋家の家臣となり、一橋慶喜が将軍となることによって幕臣となり、慶喜の弟昭武に従ってフランスパリに留学した場面に至ります。
 そこで栄一が感銘を受けたのは、ナポレオン3世の命令で昭武に附いた武官ウィレット大佐と銀行家フロリヘルトとの立ち話でした。その内容は資産運用の相談だったようで、フロリヘルトが「あそこの株は買っておいた方がいいですよ」というようなことをウィレットに勧めていたりする内容だったのです。そのぐらいのフランス語は栄一にも理解できました。それで栄一が何に感銘を受けたかというと、武士と商人が対等に、ごくフランクに会話していていることに感動したのです。武士は威張っていて、商人はへりくだっていて、対等な会話など、当時の日本の常識では考えられなかったのです。これが本来の姿なんだ。平等な時代を目指さないといけないんだと強く思ったのだと述懐しています。そしてそのときの「実業界の地位を上げねばならぬという私の思い入れに間違いはなかった」ことが今日この日に証明されたことがことのほか感慨深いと語ると、会場は万来の拍手に包まれたということなのです。
「官尊民卑」という日本の伝統的慣習は今では死語のように言われますが、江戸、明治、大正、昭和、平成、令和と程度の差はあるものの、連綿と引き継がれています。なぜなんでしょう。それを探り出すのは本稿の主旨ではないので置いておきますが、明治の自由民権派や中江兆民によるルソー思想のような観念的なアプローチではなく、極めて現実的な経済活動によって、この精神的慣習を打破していったのは渋沢栄一の功績と言っていいと思います。

渋沢栄一の考え方その1。いまこの場で自分は何を求められているのか。
 幕末から明治にかけて、栄一の立場というのは目まぐるしく変わりますね。藍と養蚕の兼業農家の長男、倒幕の志士、一橋家の家臣、徳川の幕臣、将軍の弟昭武のパリ留学随行員、静岡藩の商法会所頭取、大蔵省改正掛、第一国立銀行頭取、東京商法会議所会頭となるまで、その時その時の立場で自分の役割を知り、最善を尽くすのです。それもその場で最適な具体的解決策を示していきます。そこに我欲はなく、野心もありません。家業の繁栄だったり、藩の利益だったり、国家が富むことであったり、目的は常に明確です。そしてその成果は目の前に現れやすいことが多かった。あまり未来遠望に渡る目標ではなく、成果がすぐに現れることに集中していました。だから周囲の理解や協力を得やすかったし、自ら権力を取りに行くというより、自然と周りから担がれることの方が多かったのです。このことは単純なように見えて、簡単にできることではありません。

渋沢栄一の考え方その2.実業において道徳と合理性は両立する。
 「論語と算盤」のことですが、武士社会の延長から考えると「論語」は馴染みのある道徳観でした。何せ5、6歳の頃から音読し、暗誦させられて来た学問ですから。これに比べると「算盤」の方は武士=明治官僚及び政治家にとって理解しにくいのです。計算という意味の狭義の「算盤」は理解できるのです。合理性という意味での広義の「算盤」は中々理解されませんでした。
 どういうことかと言うと、「原因」と「結果」の関係とか、「効率」を考える場面が武士の日常生活にないからです。その点、栄一は幼い頃から、合理性の真っただ中で生活しているのです。良質な藍の収穫という「結果」は高価な肥料を与えるという「原因」がなければ成立しないのです。そして良質な藍によって生産された藍玉は信州の染物屋に高く売れるというさらなる「成果」を農家に与えるわけです。これが「算盤」=合理性の基本だと栄一は理解していたのです。
 さらに栄一はその道徳と合理性の合致を信じて疑わなかった。合理的ではあるが道徳的にはどうかとか、道徳的には正しいが効率的(合理的)ではないというようなケースを栄一は一切認めないわけです。道徳的に正しい事業は合理的にも正しいという信念は栄一独自のものでした。この視点は「ポスト資本主義」と言われる現代の課題を解く鍵になるかもしれません。

渋沢栄一の考え方その3.資本は独占しない。だから利益も独占しない。
 栄一はその生涯で500以上の企業を起こし、600以上の社会事業にも関わったと言われています。私たちはその数に圧倒されるのですが、私が注目したいのはそれらの企業への出資が必ず数人から数十人の実業家によって成されたという事実です。そのプロデュースを栄一がやっていました。出資資本を個人に独占させないということは、その事業によって得られた利益も独占させないということです。そしてその事業実績は常に関係者に公開されることになります。
 あまり一般に言われないことですが、栄一の大蔵省時代の事績で重要なのは日本で初めて国家予算の収支報告を公開させたことです。封建体制では決してあり得なかったこの国家会計の公開原則はその後の政府にも継承されました。出資の独占は事業収支のブラックボックス化につながります。出資者をより多数にして、経営の健全化と利益の公平な分配を約束すること、これがないと事業は発展しないというのが栄一の「合本主義」の基本なのです。

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