陸奥宗光の再起。その3

日清戦争開戦の動機と勝算。
 陸奥宗光の留学が他の留学事例と大きく異なるのは、その準備の長さと深さだろう。4年4か月に渡る獄中生活は留学の準備期間としては十分過ぎるほど長かった。特にイギリス功利主義の主唱者ベンサムに関する原書購読と翻訳作業は現実のイギリス議会政治を理解するのに大いに役立った。「社会の利益とは、社会を構成している個々の成員の利益の総計である」と説く、ベンサムの「効用原理」は陸奥本来の思考と良く馴染んだ。行為や制度の正しさはイデオロギーではなく、その結果としての効用によるという考え方は合理的であり、宗教的な価値観や観念論の侵入を阻止している。だからこそ、欧州と日本の様々な交渉現場でも議論の前提として共有しやすい。すべての事象に対しUtility(効用、効果、使い勝手)を優先する発想を土台として、陸奥はイギリスの議会制度、プロシアの国家制度を積極的に取り入れていった。ウィーンにおいてローレンツ・フォン・シュタインから国家学の講義を受けたときも知識として受け身で吸収するというより、問を深め、しつこく答えを求め、シュタインも陸奥の知性を評価していた。国家の主権者としての天皇と行政府としての内閣、そして議会との関係は、いかなる構造で対置し、運用されるべきか。その設計図が陸奥の頭の中で描かれ、修正され、何度も描き直された。
 1886年、ほぼ2年の留学期間を経て、帰国した陸奥は外務省に入省し、2年後、駐米公使として赴任する。さらにその2年後1890年、帰国して第1次山県内閣の農商務省大臣となり、第2次伊藤内閣で外務大臣となった。井上馨や大隈重信がなしえなかった英国との不平等条約が陸奥によって改正され、在日英国人の領事裁判権は撤廃されつつあった。1890年の12月、山県有朋は帝国議会の施政方針演説において「主権線」と「利益線」という考えを述べる。日本という国家の主権が及ぶ国境の外側に国益を左右する境界線があるという考え方は山県独自のものではなく、山県がウィーン大学のシュタインから学んだものだった。陸続きの欧州における国境意識と島国である日本とでは、本来異なるものであるべきと現代からは批判できるが、当時は先進国の国家観として日本の指導者たちに共有された概念だった。つまりこの時、朝鮮半島と台湾までを日本の利益線内という領域感が共有され、そのための軍備増強が企図されていた。
 渋沢栄一も後に「韓国全土を挙げて我が利益線圏内に置く」ことが「急務である」と語るだけでなく、1878年、自らが頭取を務める第一国立銀行の釜山支店を開設し、1880年元山出張所、1883年仁川出張所、1888年には京城出張所を開設していた。さらに後の1902年、第一国立銀行は韓国の通貨として銀行券を発行し、その紙幣には渋沢栄一の肖像が印刷されていた。そのことは、現在に至るまで韓国国民にとって苦い経験として残っており、渋沢の評判は悪い。第一国立銀行は国立というものの、日本国家が出資運営した銀行ではない。あくまでも民間銀行であった。日本の通貨をモルガンスタンレーが発行するようなものだから、韓国にとっては国辱的な体験として記憶されることになった。
 
 陸奥宗光にとって4年半の投獄とその後2年に及ぶ欧州留学は政治家として生まれ変わるための重要な準備期間となった。伊藤博文、井上馨、山県有朋の藩閥政府と渋沢栄一を中心にした実業界が陸奥に投資した結果として、有能な外交政治家を政府内に育成することが出来た。陸奥も渋沢も薩長閥を嫌っていたが、近代国家日本を確立させることには積極的に貢献しようとした。そして彼らが描いた東アジアにおける日本の役割は「主権線」を越えた朝鮮半島を含む「利益線」を想定する国家の領域感だった。この領域における政治と経済の体制は清や李のような王朝支配による華夷秩序の体制ではなく、憲法と議会制に基づく帝国主義的体制でなくてはならなかった。それを望んだのは、日本だけではなく、軍事力のよる植民地支配の限界を感じつつあり、ロシア南下の危機感を持っていたイギリスであり、ベトナム支配に対する清の干渉を抑えたかったフランスでもあった。またロシアは日本と清王朝の間に入って、イギリス、フランスの軍事介入を招くのならば、どちらかが負けてからでも遅くないと様子見に態度を決めた。だから、日清戦争を企図しつつあった帝国日本の野心を英仏露は敢えて抑圧しようとはしなかった。そして重要なことは、こうした欧州各国の思惑を陸奥宗光は熟知していたであろうということだ。陸奥の耳には国内の対外硬派の声は十分過ぎるほど聞こえていたが、その後押しだけで開戦に踏み切るほど浅慮ではない。万一、黄海の制海権を清の北洋海軍に握られ、朝鮮半島から日本陸軍が撤退することになっても、日本の「主権線」釜山―下関間の航路を侵すところまでの力は李鴻章にはないと見ていた。陸奥にとって日清戦争は取り返しのつかない大博打ではないと考えられた。だからこそことさらに開戦の理由を朝鮮国内の混乱の平定、朝鮮国家の独立を目指すとし、日清戦争を「文明」と「野蛮」との戦いという構図に置いた。結果的に戦争は日本の圧倒的な勝利に終わった。戦後の三国干渉まで想定内であったかどうかは定かではないが、妥協は成立し、戦争の更なる拡大は食い止められた。

 1894年の日清戦争は日本が初めて行った国家間の戦争だが、それは朝鮮半島の統治権を清国と争った戦争であった。この10年後、1904年に日本はロシアと戦うことになるが、今度は清国東北部からのロシア陸軍の撤退を求め、朝鮮半島に対するロシアの干渉を完全に排除することを企図した。日露戦争は日清戦争の延長線上にあり、さらに日露の10年後、第1次世界大戦が勃発する。この戦争の結果によって、日本は旧ドイツ領であった青島及び南洋諸島を統治することなり、日本の「利益線」は拡大された。太平洋戦争以前の東アジアにおける日本の領域感は中国大陸の満州から南洋パラオ諸島あたりまで広がっていた。
 こうした日本の拡張と拡大の起点が日清戦争であり、この戦争を主導したのが陸奥宗光であった。歴史の推進力を個人に還元することには無理がある。しかし、1884年(明治17年)に伊藤博文、井上馨、山県有朋そして渋沢栄一が陸奥の再起を画策しなければ、日本は日清戦争を起こすことなく、その後の東アジアにおける日本の役割も違ったものになった可能性はある。そして明治を現代から隔絶した輝かしい過去、「近代日本の青年期」として憧憬の対象とするだけでは、現在の日本の「ありさま」を理解することは出来ない。

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