坂本龍馬という出来事。

「坂本龍馬と明治維新」マリウス・ジャンセン著

 この本との出会いのきっかけは、日本近現代史の研究者である三谷博さんの「明治維新を考える」(岩波現代文庫)を読んだことです。三谷さんは、この本の冒頭で明治維新の謎として「なぜ、武士が自ら武士身分の社会的自殺を招いたのか」を上げます。その答えとして三谷さんが考えたのが「間接的アプローチ」という考え方です。つまり、最初から武士が自らの特権の放棄を意図したわけでなく、「大政奉還」「王政復古」「辞官納地」「版籍奉還」「廃藩置県」「秩禄処分」等という段階的な課題解決の連鎖の果てに結果として、武士自身が社会的自殺を選ばざるを得なくなった、という説明です。これは、これでわかりやすいんですけど、それだけかなあ、と思っていました。もっと心理的なものが関わっているのでは、という疑問が残っていました。それが浅田次郎さんの「流人道中記」でわかった気がしたのです。それは、青山玄蕃という大身の旗本が冤罪に巻き込まれて、切腹を命じられたとき、家を取り潰されても、切腹は嫌だと決意したことなんです。
 つまり、武士身分を守るのが嫌になったということです。身分を維持する方が辛いんです。放り出した方が楽なんです。自分が切腹して、息子に家格を残したとしても、自分と同じ幕府内の権力争いに巻き込まれるのが目に見えている。そういう不幸の繰り返しを自分の代で断ってしおうと青山玄蕃は決心したのではないか。「版籍奉還」「廃藩置県」が比較的スムーズに運んだのも、大名家が藩政を継続するより、明治政府に返してしまって、「華族令」に従って、侯爵とか伯爵として東京で生活する方が楽だと思えたからでしょう。巨額の借金と大勢の家臣とその身分階級体制の維持から解放されるのですから、無理もありません。

 前置きが長くなりました。「坂本龍馬と明治維新」です。前掲の三谷博さんの本のⅡ部を「維新史家たち」とし、マリウス・ジャンセン、遠山茂樹、司馬遼太郎の3人を扱っています。また、「維新に関する読み切れないほどの歴史書の中でどれか一冊を推薦せよと言われたら、ためらいなく本書をあげるだろう」と言い、「本書は国境を超えた、不朽の価値を持つ」とまで語っています。

 この本には、坂本龍馬自身の内面的な肖像について、多くは語られていません。むしろその背景がわかりやすく緻密に描かれています。幕末土佐の武士身分はどうだったのか。坂本家の経済的背景や家族環境はどうだったのか。龍馬が学問を嫌い、正義感と剣術が強く、やがて江戸の剣術道場に留学し、そこでどのように情報ネットワークを広げていったのか、が語られます。確かに、龍馬が暗殺のターゲットとして、勝麟太郎と横井小楠を選んだのは、幕府内に詳しい情報網を持っていないとわかりません。勝が大久保忠寛を通じて、幕閣ルートで開国論を上げていて、横井が越前藩主松平慶永を通じて、有力大名ルートに開国論を上申しているのですが、それが剣術道場というメディアに伝播されていたわけです。著者のジャンセンも指摘してますが、この人選が龍馬にとっては良かった。しかも、初めに松平慶永の江戸屋敷に行って、勝と横井に会わせてくれ、と直談判する。で慶永は、承諾して、勝を紹介する。勝には、事前に連絡してあって、龍馬が来ると「まあ、おれを斬りに来たんだろうけど、少し話を聞いてからにしなさい」と言う。
勝の話を聞いた龍馬は「あなたが何を言おうとも、斬るつもりで来たが、話を聞いて、自分の頑迷固陋を恥ずかしく思う。私を弟子にしていただきたい」と180度態度を変えてしまいました。さて、勝はどんな話を龍馬にしたか、その資料は残っていませんが、やはり、その数か月後に長州の木戸孝允が友人と勝に面会し、勝が話した内容が勝の日記に残っています。
 「われわれは朝鮮の状態を話し合った。現在、アジア全体を見渡しても、ヨーロッパ人に対して、どれほどかの抵抗を試みているところはどこもない。一つとして遠大な計画を追うものがない。われらはわが国から船を送り、アジア列国の指導者に、アジアの存立は諸国の連携と大海軍の建設にかかっている。もしアジア諸国が必要な技術の発展につとめないのであれば、西洋人の足下に蹂躙される運命を逃れられないことを肝に銘じてさとらせるべきだ。それをまず朝鮮から始め、次に中国におよぶべきだ。この私の意見に、二人は完全に同意した。」龍馬や木戸といった勤皇の志士たちの世界観からすると一回りも二回りも大きいわけです。日本の中で尊王だ、攘夷だ、佐幕だ、朝廷だと言い争っている場合ではない。アジア全体の危機感を持てと言われた。勤皇の志士が維新の志士に脱皮する過程がここにあります。
 ちなみに、この勝のビジョンというのは、明治維新後も変わらないんです。同じ理由で日清戦争に反対しました。もっとも、日清戦争開戦のときは、このアジア観に加えて、中国大陸は広いんだから、戦争しても、向こうが引きはじめたら、どんどん奥地まで引いてしまって、追いかけることは不可能だという現実的な判断もしています(満州事変以降の帝国陸軍にも聞かせたい)。それを無視して開戦に踏み切ったのがときの外相陸奥宗光ですから、坂本龍馬の右腕として海援隊で活躍した陸奥との因縁を感じます。
 勝によって世界観を拡大された龍馬は、勝の片腕として兵庫海軍操練所の創設に動きます。その後、大久保忠寛にも会って、彼の「大政奉還論」も吸収し、操練所の解散命令が幕府から出ると、勝の支援もあって薩摩藩の新式蒸気船の運転を依頼されます。薩摩の支援を受けながら長崎に海援隊を組織し、長州への武器運搬をはじめることになりました。この武器の購入には、薩摩藩も英国商人トーマス・グラバーも深く関係していますから、彼のネットワークはさらに拡大しました。つまり、様々な立場の当事者に直接会って、ビジョンを成長させていくのです。幕府、朝廷、土佐、薩摩、長州、イギリス商会、彼は自分のビジョンが広がっても、それまでに関係した人的ネットワークを切ることをしません。土佐との関係も切ることなく、逆に巻き込んでいきます。もうここまで来ると、坂本龍馬という存在自体が一種の媒体(メディア)のように機能しています。こうした様々な角度からの新日本のビジョンを龍馬なりに咀嚼し、まとめ上げたのが「船中八策」だったのです。しかし、彼は新政府の政体をみることなく、暗殺されてしいます。著者は維新後の土佐も描き、なぜ土佐が自由民権運動の中心地になっていったのか、その過程の丹念に追っていきます。

 さて、マリウス・ジャンセンという著者について少しお話しておきます。
彼は1922年、オランダで生まれました。2歳のときに両親と共にアメリカに移住して、プリンストン大学に入学、歴史学部でドイツの宗教改革についての論文を書いて、最優等学賞を受賞、アメリカ全国の優等学生賞にも選ばれました。卒業が決まって、日米開戦の報を聞くとアメリカ陸軍の志願兵に登録します。そこで、中国語か日本語のどちらかを選択せよと言われる。隣に座っていた友人が中国語を選んだので、彼は日本語と答えてしまった。
 そこで、彼はハーヴァード大学に送りこまれ、1年間の速成教育を受けます。そして、1945年終戦の年、沖縄から日本本土に上陸、翌年にアメリカに帰国し、ハーヴァードの大学院に入学しました。そこで彼はライシャワー(後の駐日米国大使、明治学院大学の宣教師館で生まれた)から薫陶を得て日本語に磨きをかけ、専攻を日中関係にします。博士号を取得し、1950年、ワシントン大学で教鞭をとります。そして「日本人と孫文」という論文を発表するのです。日露戦争以後、清朝打倒を目指して、日本を舞台に協力者を集めた孫文(逸仙)。彼の目指す革命に資金的に支援した犬養毅や頭山満、そして孫と行動を共にする宮崎滔天や内田良平、その後継者としての北一輝という顔ぶれです。彼らは自らを維新の志士になぞらえていました。明治維新を中国で、朝鮮で再現しようという意識もあったし、明治維新は第1革命であって、第2革命が必要だという主張もあった。「志士」とは何か、という疑問がマリウス・ジャンセンを捉えたのです。
 1955年、彼は貨物船に乗って日本を再訪、高知に入り資料を収集します。1957年、高知で出会った郷土史家の平尾道雄氏をワシントン大学に招いて特別セミナーを開きます。こうした準備期間を経て、「坂本龍馬と明治維新」は1961年に刊行されたのです。その頃、彼は母校プリンストン大学に招かれ、東アジア研究を育てる役目を与えられます。ここで彼は日本近代研究会議を立ち上げ、丸山真男をはじめとする日本人研究者も正式メンバーとして参加したのです。それ以降、彼は「日本の近代化」を研究テーマとすると共に、アジアにとっての「近代化」とは何か、というより普遍性の高い領域に踏み込んでいきました。

 さて、次回は、「明治天皇」(全4巻)ドナルド・キーン著 新潮文庫です。キーンさんはジャンセンと同じ年です。キーンさんは海軍の通訳官でしたから戦争中は接触がなかったでしょう。日本研究者としては交流があったんでしょうか。ご存じの方がいたらご教示ください。

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