幕末の幕臣、永井尚志と大久保忠寛

 1853年のペリー来航前後、老中首座阿部正弘は旗本から優秀な人材を次々と登用し、目付、海防掛に取り立てました。その中に永井と大久保がいます。このふたりの共通点は、明治まで生き残ったことです。

 永井尚志は三河奥殿藩の藩主松平乗尹の庶子として生まれ、3歳で父が亡くなると江戸の藩邸で育ちます。25歳で旗本永井家の婿養子になりました。永井家の禄高は3000石と言いますから、かなり高位の旗本です。永井の最初の仕事は、長崎海軍伝習所を監督したことです。伝習生は旗本、御家人だけでなく、各藩の陪臣子弟も採用しました。その中には榎本釜次郎(後の武揚)もいましたし、伝習生の幹部として勝麟太郎(後の海舟)もいました。教官はオランダの武官たちです。こうした人々の要望をまとめて、長崎奉行や江戸幕府と調整する作業は大変だったと思います。さらに、永井は長崎に来航したイギリスやオランダの外交使節との条約交渉にも対応していたのです。3年ほどの長崎滞在を経て江戸に帰ると、タウンゼント・ハリスの将軍家定への謁見の接応を担当し、それを無事済ますと勘定奉行に任じられました。この時、永井は42歳、38歳で目付に登用されてからの4年間で、開国派幕僚としての立場と志操が出来上がりました。
 彼が活躍できたのは、幕府内に岩瀬忠震という同志がいて、岩瀬が老中首座阿部から信頼され、阿部が徳川斉昭をはじめとするうるさ型の大名を抑制し、開明派の薩摩藩主島津斉彬や越前藩主松平慶永と同調してことをすすめられたからでした。阿部と斉彬が立て続けに亡くなると、この人事体制が崩れてしまいます。そして井伊直弼が大老につくと、安政の大獄がはじまり、進歩派幕僚は左遷されます。岩瀬、永井も蟄居、家禄も召し上げ、そんな失意の中で岩瀬は亡くなりました。
 そんな中、万延元年、本当は永井も行くはずだった渡米使節として咸臨丸が勝麟太郎を艦長とし太平洋を横断します。そして井伊直弼は桜田門外で暗殺されます。そこで永井は幕政に復帰、京都町奉行に任じられます。その後2度の幕府による長州征討の詰問使という役割を果たしました。鳥羽伏見の戦いの前年1867年には、京都に在って、本来大名にしか許されなかった若年寄格(7000石)に任じられ、徳川慶喜の片腕となって外交、内政に活躍しました。西郷隆盛、後藤象二郎、坂本龍馬、ハリー・パークスと会談を重ね、大政奉還の下準備を進めたのです。坂本龍馬とは暗殺の前日にも会っていました。ですから、坂本の船中八策も理解して、同意していました。
 どうでしょう。徳川幕府側から見ると、裏切り行為に見えますか?大事なのは、この時期、すでに大政奉還に慶喜が舵を切っているということです。永井の使命は、いかに徳川家を存続させるか、という点に絞られているのです。問題は、朝廷による新しい政治体制ができたとき、徳川家はどのような位置づけになるかという点にありました。一大名なのか、それでも諸侯を束ねる議長役なのか。慶喜は後者を望んでおり、西郷、大久保、岩倉は前者、出来れば、大幅な減封をして、政権復帰の可能性を潰しておきたかったのです。そこに、鳥羽伏見の戦いが勃発してしまいます。慶喜は、永井を置いて、江戸に帰ってしまいました。永井は何とか紀伊藩まで逃げ、そこから船で江戸に帰り着きました。登城停止、閉門の命を受けます。
 ここがちょっと疑問なんです。慶喜は江戸に帰ると新人事体制を発するのですが、老中を全員罷免して、会計総裁を大久保忠寛に、陸軍総裁を勝海舟に、海軍総裁を矢田堀景蔵に任命したのです。なぜ、永井を最後の幕閣に残さなかったのか。永井なら大久保と同期の目付、外国奉行だし、勝と矢田堀は、長崎時代の部下だし、敗戦処理をきちんとこなしたのではないかと思うのです。まあ、長州への詰問使などをやってますから、長州からは憎まれているかも知れませんが、まあ、この時点で慶喜に深く考える余裕はなかったでしょう。それとも、大久保は勝とふたりで幕府の幕引きをする腹積もりでしたから、永井のような重臣が邪魔だと考えたのかも知れません。
 結局、永井は、官軍への軍艦引き渡しを拒否した榎本武揚と共に北に向かい、函館戦争に参加することになります。この時、永井は53歳です。榎本は1862年、オランダに留学し、幕府が発注した開陽丸の造船に立ち会い、開陽丸と共に1867年日本に帰国しました。幕末の5年間、オランダにいたわけですから、薩長、朝廷、幕府のゴタゴタは一切わかりません。帰ってきたら、急に戊辰戦争が始まってしまったわけです。この5年間を共に過ごした開陽丸に対する愛着だけが確かなものだったと想像できます。その榎本の心情を永井は深く理解していたと思います。オランダ帰りの彼らだけで行かせる訳には行かなかったのでしょう。彼らは函館の五稜郭に立て籠もり、永井は函館奉行として、函館の各国領事との交渉に当たりましたが、開陽丸も沈没し、官軍に投降しました。永井は榎本らと共に約2年半投獄されます。57歳で特赦により出獄。その後、明治政府により、北海道開拓使御用掛に任命され、さらに左院議官を経て、元老院権大書記を務め、60歳で退官します。この特赦と政府への採用は、函館戦争の時の官軍司令官の黒田清隆と西郷隆盛の政策でした。ちょうど岩倉訪欧使節が出発した後で、西郷が中心となって、元幕府の能吏を政府に採用する政策を進めていたときでした。
 これから先は、永井の老後になります。彼は、且つての友人であり、同僚だった岩瀬忠震が晩年を過ごした向島の岐雲園に移り住み、岩瀬を祀る祠を設け、76歳のとき岩瀬の三十回忌まで催して、亡くなりました。まったくどういう人なんでしょう。いくら親友だったとは言え、30年間その思い出を抱き続けるということが出来るのでしょうか。永井は63歳の時、静岡に隠棲している慶喜を訪ねます。しかし、会うことは出来ませんでした。慶喜にとっては、思い出したくない人物だったのでしょうか。鳥羽伏見の戦いのとき、大阪に置いてけぼりにし、幕閣からも一切外してしまい、函館戦まで行かせてしまった。そうした負い目が慶喜の側にあったのかもしれません。

 それでは、次回は、大久保忠寛です。


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