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杉田真一の乱 前編

雲一つない青天。もう春は来ている。
杉田真一はチェンソーを始動させた。
耳障りな音にイラッとする。
洟が垂れてきた。構うものか。
「20年の恨み………全切りだあぁぁぁ」
杉田はチェンソーを振りかざした。

当時の現場事務所は共同詰め所でタバコも吸えた

20年前、専門学校を卒業した杉田真一は、地元の塗装会社に就職した。
翌年の3月、仕事で静岡県御前崎市へ出張に行った。
現場で朝のラジオ体操をしていると、杉田は突然くしゃみが出た。それも連発で。また目の痒みも感じた。

ラジオ体操後、杉田は班長に呼ばれた。
「杉田よ、初日から風邪をひいたとは良い根性してんじゃねえか。おぅ?」
パイプ椅子に座っている班長の濁声に、杉田は瞬時に首を左右に振った。班長は坊主頭で無精ひげを生やしている。身長も180センチを超えていて、40代なのに筋肉も隆々としている。ガリガリの杉田とは大違いだ。
自分でもこんな経験は初めてだし、昨日の夕飯はコンビニ弁当とカップ麺を食べて22時に就寝。
今朝、ビジネスホテルで朝食を食べた時点では、何ともなかったのに。

杉田はくしゃみを我慢した。
「何でくしゃみを連発するんだ? あぁ? 目ェも真っ赤じゃねえか? 風邪だろ? あぁ?」
「す、すいやせん、班長」
「すみませんだろうがっ!」
班長がテーブルを叩いた。
銀色の灰皿が宙に舞って落下した。
班長がパイプ椅子から立ち上がった。班長と目線がほぼ同じである事を杉田は発見した。
「杉田よ、これ以上俺を怒らせるな。いいな?」
「へえぇ…くしょん!」
班長の顔面に、杉田の洟と唾が飛んだ。
「くせっ…汚ねんだよッ」
班長の鉄拳が杉田の右頬を捉えた。

杉田は仕事を早退し、病院に直行した。当時はフレックスタイム制など皆無だったので、欠勤扱い。
結果は花粉症だった。
杉田の実家の裏山にも、沢山の杉の木が天に向かって伸びているけど、花粉症になるなんて思いもしなかった。
「コップの水が溢れただと? なんで僕だけが花粉症に………」

翌日、現場に復帰した杉田。
この日も朝から快晴で3月にしては暖かく、また海からの風が強かった。空中では大量の黄色い粉が飛んでいる。まるで黄砂みたいだと杉田は感じた。
点眼し、薬を飲んで防塵マスクを着用しても、外に出れば瞬時にくしゃみが出る。
目が痒く、常に洟が垂れている状態で集中などできるわけがない。杉田の紙製の防塵マスクは、すでにぐちょぐちょに濡れている。
「杉田、塗り忘れがある」
同期入社の小堀が言った。
「どこ? ああ………そこか」
塗り忘れていた箇所は、アングルの裏側だった。
「また班長から鉄拳が飛んでくるぞ」
小堀がニコッと笑った。
小堀は器用で視野が広く、気が利いて班長からも好かれている。おまけに学卒で将来の幹部候補生として会社からも期待されている。
「ありがとう小堀。お前は小鼻が大きいのに、花粉症じゃないのか?」
杉田は聞いてみた。小堀は小柄で身長が160センチにも満たない。だけど鼻だけは大きくて、昔風に言うと立派な獅子鼻の持ち主だ。
「それは関係ないだろう。俺は花粉症じゃないし。それならお前は名字が杉田だから、スギ花粉になったのか?」
「ち、ちがう………」
「兎に角、洟をかんでこい、杉田!」

ちょうど休憩時間になったので、小堀と一緒にプレハブ小屋に移動した。杉田は男子トイレのトイレットペーパーで洟をかんでからプレハブ小屋に戻った。
「いいか杉田、お前が問題を起こすと班長がキレる。その後、俺が班長を諫めることになる。はっきり言って時間の無駄でしかない。だから班長の前では極力大人しくしておいてくれ。いいな?」
パイプ椅子に座っている小堀が、目力いっぱいにして睨んできた。
杉田は座っているパイプ椅子を後ろに下げた。
「わ、わかった。だけど小堀、俺だって頑張って働いているんだ。専門卒だけど」
「学歴は関係ないだろ。それと、絶対に班長の前で学歴の話はするなよ」
小堀がもう一度睨んできた。
「了解。これも全て花粉のせいなんだよ、分かるだろ、小堀」
パイプ椅子を座り直した小堀。
「それはお前の問題だ。俺は将来、出世しなくてはならないんだ。問題ごとは極力避けたい」
そう言った小堀は、持っていた缶コーヒーを飲み干した。

御前崎市の出張が終わった5月以降も、杉田の洟は垂れ続けた。
スギ、ひのき、ブタクサ、ハウスダスト、犬や猫の毛………。
杉田はいつの間にか、通年性アレルギー性鼻炎になっていた。
そのせいで朝昼晩の飲み薬が6錠。点眼は1日10回以上。1日に使用するティッシュペーパーは2箱。メントール入りの飴も欠かせない。
杉田の財布が軽くなっていく。

現場では、塗ってはいけない箇所を塗ってしまい、取引先からクレームが発生。取引先からの信用を失ってしまい、班長から大目玉を喰らった杉田。
また別の現場では足場上でくしゃみを連発し、持っていた塗料缶が落下。マンションの外壁がまるで返り血を浴びたように、真っ赤っかになってしまったのである。
マンションのオーナーが激怒。2時間以上、杉田は平謝りを余儀なくされた。

杉田はこれ以上、洟迷惑をかけるのは申し訳ないと思い、退職することにした。
それを聞いた班長が激怒した。
「杉田よ、お前は自分のケツの尻拭いもできねェのに、辞めてどうするんだ? 誰がお前の尻拭いをするんだ。あ?」
プレハブ小屋内に班長の怒声が響いた。杉田の胃がキュッと閉まった。
班長はパイプ椅子に座っていて、先ほどからずっと貧乏ゆすりをしている。杉田はくしゃみが出そうになったので、歯を食いしばって我慢をする。
「それはな、現場班長の俺に決まってんだろうが。この馬鹿野郎」
班長の右ストレートが飛んできた。
歯を食いしばっておいて良かったと杉田は思いながらも、左目から涙が落ちてきた。
小堀は知らん顔をして、スマートフォンをガン見している。
もういい。この際、どうなってもいい。
「班長…僕だってこんな事になるとは思っていなかったんです。全ては杉が、花粉が悪いのです」
杉田は一気に話した。
「花粉のせいにして逃げようってか。お前の人生は逃げてばかりなのか?」
杉田はイラっとした。別に逃げたっていいじゃないか。
「違います。僕は専門卒です。班長みたいに中卒で………」
しまった。ついイラっとして学歴の話をしてしまった。気づくと小堀がこちらを見ていた。小堀の両目が怒っていた。

「お、おまえ今何て言った…中卒って言わなかったか?」
班長がパイプ椅子から立ち上がって詰めてきた。
班長の鼻が、杉田の鼻に当たった。
「いえ…言ってませんよ。へェ…へくしょん」
我慢できなかった。顔を横にずらす暇さえなかった。杉田の洟と唾が班長の顔面に付着した。幾分、杉田の顔面にも戻って来た。
「またやりやがったな!」
班長の頭突きがさく裂した。
痛い。物凄く痛い。頭がクラクラする。
「中卒の何が悪い? 少年院に入ってたのがそんなに悪いのか。あぁ?」
「それはそうでしょ。悪い事をしたから少年院に放り込まれたわけで…」
「杉田!」
小堀の怒鳴り声が聞こえた。
その後も班長からの鉄拳が続いた。杉田は頭をガードするだけで精一杯だった。

さらにマンションの外壁再塗布料金として、杉田は給料から20万円も天引きされた。同期入社の小堀からは、鼻に塗るメンソレータムを8個も渡され、頑張って生きていけと励まされた。
2年間勤めたのにも関わらず杉田は小堀以外、誰からも優しい言葉をかけられることはなかった。
スギ花粉を発症し、さらに通年性アレルギー性鼻炎になったことで、杉田の人生は大きく変わってしまった。

そして、杉田の怒りも膨らんでいった。


【後編へ続く】

https://note.com/kind_willet742/n/n279caad02bb7?sub_rt=share_pw

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