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杉田真一の乱 後編

その後も杉田は苦しむ

次いで杉田は塗料を扱うメーカーに就職した。
同期の小堀の紹介である。杉田は嬉しさのあまり、ラジオ体操第一の中で行われる、あのジャンプのように何度も飛んだ。
しかし、得意先との商談中に杉田の洟が書類に落下。3度続けて落下。酒に酔うと感覚が鈍り、洟が垂れても気づかない、あの状態が杉田の日常なのである。

それ以降も杉田は納品時に塗料缶の中に洟を垂らしてしまい、班長からまた大目玉を喰らってしまった。
さらに料亭での接待中にもくしゃみに襲われた杉田は、時価のお刺身の盛り合わせに洟水をぶちまけてしまった。2度と洟垂れ小僧を呼ぶなと取引先から信用を失ってしまい、さらに部長と課長から大説教を喰らってしまったのであった。

以降、杉田は軽いうつ病になり、退職した。
さらに杉田は働くことを放棄した。
どうせ働いたところで、また洟が垂れ、くしゃみを連発し、周囲に迷惑をかけるのだから。マスクを着用したってその場凌ぎにすぎない。数時間もすればマスクはびしょ濡れとなり、かえって気味が悪いと思われるだけだ。
両親の年金をもらいながら暮らす日々。
通院してパッチテストや血液検査、CT検査も行ったが、杉田の症状は改善しなかった。

春分の日を迎えた。
杉田はこの日、41歳になった。本厄だ。
久しぶりの外出をした杉田は、近所のスーパーに行った。
家に帰る途中、着用していたマスクの紐が切れてしまった。
「ない。ないぞ」
焦る杉田。いつも常備しているマスクの予備がポケットに入っていなかったのだ。
家まであと300m。
歩き出した途端、案の定くしゃみが出た。
水道の蛇口が壊れたかのように、洟が垂れてくる。止まらない………。
「すげえ鼻水。ハハッ」
子供たちに笑われた。
「やばいやばい。天然記念物見つけた」
スマホをこちらに向けた女子高生集団が追いかけてくる。
なおも杉田のくしゃみは止まらない。
数歩進んではおじぎをする行為を、杉田は何度も繰り返した。
向かい風により、洟が目に入った。猛烈に目が痛い。
「誰か助けて………」
杉田は泣いた。
そして顔中がぐちゃぐちゃになった。



ついに堪忍袋の緒が切れる

家に帰った杉田は何度も顔を洗った。
鏡に映った自分の顔。目と鼻が真っ赤になって腫れている。さらに頬がこけた気がする。
僕はいつまでこんな生活をしなくてはならないんだ。
杉田の心に火が灯った。
「もういい………へくしょん。も、もううんざりだ」
杉田は納屋に行き、チェーンソーを持ってきた。
おじいさんが林業をしていた手前、杉田はチェーンソーの扱いには慣れている。

雪が残る裏山には、高さ5mを超える杉の木が、赤茶色に染まって大きく左右に揺れている。それも何千本とある。
母親は3年前に胃がんで天国へ。
翌年、父親は認知症を発症し、現在は住宅型の有料老人ホームに入居中。そんな父親は、杉田の事をリフォーム会社の悪徳営業マンだと思い込んでいる。会いに行っても父親からシカトされる始末。
杉田に兄弟はおらず、親戚付き合いも無い。
本厄の杉田。独身の杉田。童貞の杉田。福耳の杉田。
そして未だ治らない通年性アレルギー性鼻炎。
全ては20年前。静岡県御前崎市へ出張に行って花粉症になってから、杉田の人生は大きく変わってしまったのだ。

国は杉の代わりの植替えを進めているが、杉田が生きている間には終わらないだろう。だって総人工林面積のうち、杉の木が45%も占めているのだから。
それに花粉市場の年間売上は、おそよ2兆円と言われている。裏を返せばスギ花粉によって2兆円もの経済損失があるという証左でもあるのだ。
さらに近い将来、森林環境税が施行されるという一方も、杉田の耳に飛び込んできた。
もはや杉田に、残された道はない。

杉田は地面から50センチの高さにチェーンソーを構えた。
「20年の恨み………全切りだあぁぁぁ」
杉田のチェーンソーが杉の木にスッと入った。杉の木が泣いているのを杉田は感じた。
だが杉田は容赦しなかった。だって20年間も苦しんだのだから。
俺の人生を狂わせた杉の木を、絶対許すわけにはいかないのだ。絶対にな!
「へくしょん!」
くしゃみをすることで、わずかに切り口が下がる。杉田は垂れてくる洟を飲み込んだ。
あっという間に1本を切り倒した。

感覚を取り戻した杉田は、片手で洟をかんでから、2本目にチェーンソーを入れた。
杉は建築材や家具、彫刻、工芸などにも使われている。いわば杉は日本の文化を支えてきたと言っても過言ではない。現に杉田のおじいさんは林業だったのだから。だからもっと杉を切ればいい。切って切って、また日本の文化を取り戻せばいい。
そしてスギ花粉やアレルギー性の人たちに、快適な日々を送ってもらおう。そうすれば心が平穏となり余裕ができる。日常生活から怒り、恨み、妬み、差別、偏見などが霧消していく。
日本が今以上に平和になれば、自ずと平和が世界に波及していくはずだ。

チェーンソーが止まった。
オイルが無くなったのだ。オイル缶も空になっている。あと少しで倒木できたのに…。
気づくと周囲が倒木だらけになっていた。ゆうに30本は倒木している。
杉田は服に着いた切粉を払った。
自分の上半身から湯気が出ている。両腕と腰、太ももが痛い。
「ふぇ………ふぇくしょん!」
飲み込んでも飲み込んでも、洟が垂れてくる。
いつの間にか空が鉛色になっていた。

杉田はオイル缶を補充しようと納屋に戻りかけた時だった。
パン、パンと乾いた音が聞こえた。
杉田の右腕に痛みが走った。
杉田はその場に片膝をついた。
雪が見る見るうちに赤く染まっていく………。
「逃したか!」
男性の濁声が聞こえた。
2人の男性がこちらに近づいてくる。
背の低い方が、杉田をガン見している。
「あれっ………す、杉田じゃないか?」
小堀だった。
「お前何してんだ? 相変わらず洟垂らしやがって」
そして、杉田を何発も殴った濁声の班長だった。

20年振りの再開。

小堀はほとんど変わっていないけど、班長は顔色が悪く、かなり皺が増えていた。
「は、班長と小堀は、僕の山で何をしているのですか?」
「熊狩りに決まってんだろ」
班長がポケットからタバコを取り出した。
「杉田、それよりお前が倒木したのか?」
「そうだよ小堀。だってここは僕の山だから」
杉田はここが自分の山であることを再度アピールした。
「当たったのが熊でもウサギでもなく、洟垂れの杉田だったとはな。なあ専務」
小堀は専務に出世していた。
「班長、相変わらず引きが強いですね」
班長はずっと班長のままだったようだ。だけど20年の月日を感じさせる会話だ。
班長が空に向かって紫煙を吐いた。
「流れ弾が僕に当たったんです。2人とも謝ってください」
杉田は2人に鮮血の滴る右腕を見せた。
班長がニコッと笑った。
「偉くなったもんだな、杉田よ」
班長から右ストレートが飛んできた。
杉田はその場に倒れた。
「お前が退職した後も、俺は数年間、お前の尻ぬぐいに追われたんだ」
班長が唾を吐いた。
その代償が右ストレートなの? 杉田は悲しくなった。

杉田が上体を起こすと同時に、左腕を小堀に蹴られた。
「俺もそうだ。せっかく紹介してやった会社に泥を塗りやがって」
まさか同期の小堀にまで蹴られるとは思いもしなかった。小堀が睨んでくる。確かに迷惑はかけたけど、あの優しかった小堀はもう存在しないのだ。
杉田はゆっくりと立ち上がった。
「猟銃の許可証を見せて下さい」
僕の問いかけに、2人が笑った。
「そんなもの俺らには必要ない」
班長があっさりと否定した。
「顔パスで十分だ。俺は専務だぞ」
小堀がニヒルな笑みを浮かべた。
「せいぜい達者で生きろよ、洟垂れ」
班長の声に、杉田の全身が熱くなった。

班長と小堀が踵を返した。
杉田は倒木しかかっていた、杉の木を蹴った。
何度も何度も蹴った。
積年の思いを込めて………。
「お前ら2人。目ェ噛んで消えちまえ!」
杉田の叫びと同時に、今日一番のキックが炸裂した。
バキッと音がして、5mを超える杉の木がゆっくりと傾き始めた。
班長と小堀がこちらに向き直った。
「あわわわわわッ」
「くんな。くんな」
2人は杉の木の下敷きになった。
杉田はゆっくりと2人に近づいた。
幸いにして顔は免れたけど、2人とも下半身は粉々だろう。
杉田は大きく深呼吸をした。
そして杉田は、班長の顔をめがけてくしゃみをした。くしゃみが止まるまで何度も何度も繰り返した。同じことを小堀にも行った。
2人とも杉田の洟と唾液により、化粧水を塗った直後のように顔中がテカっている。
「班長、小堀、お楽しみはこれからだョ」
杉田の心が何十年ぶりに晴れた。心が軽くてウキウキしている。
「悪かった。杉田、許してくれ。なあ~杉田よ…」
班長が助けを求めて来た。
「杉田、いくら欲しい…100万なら俺の車にある。欲しいだろ?」
小堀が金と引き換えに命乞いをしている。
杉田は両手を叩きながら、腹の底から笑った。
「それもいいな。だけどちょっと待ってろ。あんぽんたんの2人」
杉田はオイル缶を持つと自宅に向かった。

戻ってきた杉田は、チェンソーにオイルを入れて満タンにした。
スイッチ、ON。
チェンソーの音が、杉田の鼓動を高めていく。
杉田は今、人生で最高の瞬間を迎えようとしている。
空から雪が舞い降りてきた。
「雪か………僕は赤色が好きなんだよな」
杉田は動けなくなっている、班長と小堀の間に立った。
「どっちが先にする? じゃんけんで決めてくれないか」
2人がじゃんけんをしないので、杉田は班長の頭上にチェンソーを構えた。
「班長、ここで再会したのも運命ですね。お疲れ様でした」
「まままままて…杉田よ」
雪の上に、杉田の好きな赤色が広がっていった………。



【了】


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