(1/2)現代思想入門(千葉雅也著)を読んで

これまで『危機の構造』『終わりなき日常を生きろ』を取り上げて、近代化に対する社会の矛盾と、それによって発生する社会現象について記しました。今回はそれら近代化の弊害を哲学の面から規定したいと思います。今回扱う本は千葉雅也先生の『現代思想入門』です。

『現代思想入門』は去年(2022年3月)出版されて、ベストセラーになりました。200ページ程の新書で、普段書店に行く方なら平積みされているこの本を見たことある方もいるかもしれません。
その名の通り現代思想の入門書ですが、20世紀後半のフランス現代思想、特にデリダ、ドゥルーズ、フーコーについて記されています。キーワードは二項対立の脱構築。


二項対立の脱構築とはどういうことでしょうか?
二項対立はご存じの通り。相反する概念である二項が対立している状態です。内側と外側、自然と文化、子供と大人、本質と非本質、同一性と差異、自己と他者、善と悪、統治者と被治者などです。
脱構築はちょっと分かりにくいですね。

脱構築と言う概念を打ち出したのはジャック・デリダという哲学者で彼の議論を紹介します。
まず前提として、思考は常に二項対立が根底にあります。そしてそこには抽象的には「直接的な現前性=本質的なもの=同一性=パロール(話し言葉)=文脈依存」VS「間接的な再現前=非本質的なもの=差異=エクリチュール(書き言葉)=文脈自由」という構図があります。

それを前提としたAとBという二項対立に対して、Aがプラス項であったとする。そこであえて劣位であるBに味方するようなロジックを考えて、AとBが絡み合った宙づりの状態に持って行く思考法であり、方法論が脱構築です。
これは何でも例外がある、とか常に常識に反しろ、とか逸脱こそ正義ということを言っているのではなく、既成の価値観や秩序、同一性(これはこうである)を“一旦仮に”保留しつつ、逸脱や差異に着目することで、元あった価値観が揺らぐことを目指します。
これはスパッと割り切れない思考法です。Aだ!と決断すると楽なのですが、デリダの思考法だと、だがしかしBは・・・とAの選択を揺らがします。しかしそのような未練込みのAの選択は、Aの価値観を揺らがすことで、Bの考えの人たちを慮ることになります。そのように脱構築の思考法は他者性に対する尊重があり、ある種の倫理性を帯びる。

抽象的な説明で分かりにくいかと思いますが、後でまた戻ることにして、先に進みます。ラフに、“既成の概念にノリつつ、ツッコミを入れる”構えと思っていただいていいでしょう。


今言ったデリダの二項対立の脱構築という思考法を、存在論に組み込んだのがドゥルーズです。
ドゥルーズは「リゾーム」と言う概念を用いて、存在の二項対立を脱構築します。

例えば自転車に乗っているとき。自転車に乗っている能動的な“私”と、乗られている受動的な“自転車”といった存在は、“私”と“自転車”というように二項対立として独立しているのではなく、関係し合っている。そのように存在を脱構築します。
自転車に私は乗っているし、自転車は私に乗られている。自転車がなければ私はないし逆もそうです。
他にも、私といったって、腸にすむ生物である大腸菌は私じゃないのかというと私の一部とも言えるし、私は常に外界と相互関係し、フィードバックを受けています(ホメオスタシス機能)。もっというと、社会に埋め込まれた存在でもあるし、両親も関係しています。椅子に座っていても、その椅子を作った人は関係していますし、運んだ人、床を張った人、運ぶために必要だった道路・・・といったようにあらゆる関係性によって私が成り立ってます。“私はこういうもの”といった同一性よりも、それ以外の他者である差異が私よりも先立つ(私を存在たらしめている)と言ってます。

私に限らず、あらゆる存在があらゆる存在の関係性の網(=リゾーム)によって、生成されている。網の目にあたるのが存在です。しかもその生成によってできた存在は動的である(常に生成変化の途中)。なぜなら関係性の網がそもそも動的だからです。
しかし、その関係性の網は切断されることもある(非意味的切断)。切断されることによって無関係になるからこそ、ある種の無責任が許容され、存在の自律性を担保します(切断されなかったら存在すべてに自分の行動は責任が生じると言えます)。

ここから、他者との関係において関わりが必要だが、関わりすぎると支配になる。ある種の自律性は必要で、ちょうどいいバランスを目指すことを重視します。関わらなくてよいのではなく、関わりすぎない、再帰的に敢えて関わらないバランスを他者に対してもつことの倫理を言っています。


デリダの脱構築の思考法を社会に当てはめるとどうなるのかを考えたのが、フーコーです。そこから彼の権力論が生まれました。

従来の権力関係は、統治者=悪と被治者=善との二項対立であるとされていました。政治批判や社会運動はこのようなヒーロー図式が根底にあるのですが、それを脱構築するんですね。曰く、支配を受けている我々は、ただ受け身なのではなく、むしろ支配されることを積極的に望んでしまうような構造があると言います。

フーコーは著書『監獄の誕生』で権力論を展開しました。その本にあるパノプティコンが象徴的です。
パノプティコンとは、19世紀に存在した監獄なのですが、それは全展望監視システムとなっています。どういうことかというと、監獄全体が円筒状になっていて、円筒側面の内側に沿って独房が並んでいるイメージです。円筒の中心には看守室があって、監獄全体を見渡せるようになっています。囚人から看守室の中は見えないが、看守室から独房を見ることができます。そのような非対称な仕組みの元、囚人はどうなるか?
囚人は自分が監視されているかどうか分からないからこそ、常に監視されている意識を植え付けられ、行動するのです(規律訓練)。重要なのは、このように自分自身を自己監視する状態になるシステムが近代の様々な制度(学校、職場、軍隊、病院)に取り入れられている点です。
支配者が不可視化されるほど、監視が個人の内面となり、自身の行動を規定してしまいます。

他にもフーコーは『狂気の歴史』において異常と正常の脱構築も行います。
近代になるにつれて、社会における異常者に対する扱いが変わっていったと言います。古代人は異常者と正常者の区別があいまいで、混沌としていました。しかし時代を経るにつれ、異常者を病院などに隔離して、正常者にしてからまた社会に戻そうとする動きが出てきます。
一見耳障りのいい言葉ですが、これは区別が曖昧だったところに異常者というラベルを貼り(寧ろラベルを貼ることで、異常者のアイデンティティが社会に生じ)隔離することで、社会をクリーンにしようという社会システムの要請から来る発想です。またクリーンにした後、隔離した人を正常者に戻し社会に帰し、生産活動を行うことでシステムにとって都合のよい存在であることを求められます。

安心・安全・便利・快適な世の中を求めて、ノイズを除去し社会をクリーン化する事に対し無批判でいることは、結局権力者の掌の上で管理されることを人々が求めることを意味します。
ここまでが本著の要約です。

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