Ein dunkler markgraf~深紅の聖杯(feat.“黒い犬”)

 夢を見ているのだろうか。いつの間にか鬱蒼とした深い森の中を彷徨っていた。遙か彼方に見える小さな光の点を目指して道なき道を歩いていた。月明かりさえも霧に遮られ、只管暗い道を進む。
 緩い坂を登りきったところで峠に出た。そこで道が十字に分かれていた。目指していたはずの光の点は見回しても見つけられなかった。途方に暮れ、膝から崩れ落ちた。

 分岐路に誰かが迷い込んだことを使役が伝えた。黒い霧から生まれた黒い犬。丁度飢えかけていたし何より退屈だった。犬の眼を透して「それ」をからかってやろう。

「俺を起こすのは誰だ?」闇の中から、寝起きのように嗄れた男の声が聞こえてきた。驚いてそちらに目を凝らすと、犬の輪郭が闇から浮かび上がっていた。瞳だけが赤く光っていた。その黒犬と目が合うと、犬が目を細めて皮肉な笑いを現した。
「お前は何処に向かっていたのだ?」黒犬が問いかける。山の中腹に見えていた光の点を目指していたが、この十字路で見失ってしまったことを伝えた。
「そこは私の住処だ。この十字路のどれかはそこに通じている。ーそうだ、この路のどれかを選んで、私に襲われずにそこに辿り着けたらお前の勝ち、というのはどうだ?お前が進みだして30数えたら私も動く。走っても構わない。悪いゲームじゃないと思うが?」
 黒犬はそうは言うが、犬はそもそも夜目が利くし脚もある。すぐに追いつかれるに決まっている、と言っても相手は受け付けてくれない。
「まさか、朝になったら何とかなると考えているのか?」見透かされたかのように犬が嘲け笑う。
「この辺りは四六時中こんな感じだ」だから諦めて自分の提案に乗れと嘯く。ーだが、決められない。
「すぐにこの場で喰ってしまってもいいのだぞ?」それなら、少しでも希望がある方を十字路から選ぶしかなかった。

 どの道を選んでも必ず“ここ”へ辿り着ける。どちらにしろ、今夜は御馳走にありつける。相手も最後の夢が見られる。決して悪いことではない。

 渋々と選んだ道を淡々と進む。霧はますます深く黒い。自分を追ってくる黒犬以外の獣の気配も感じる。そして背後からは黒犬の規則的な足音とハッハッという息遣い。それがすぐ後ろなのかそれともずっと離れたところからなのか見当がつかない。歩を速めても緩めてもこちらの動きに合わせてくる。あちらにはこちらの動きが丸分かりなのかと思うと空恐ろしくなる。
 どれ程歩いたことだろう。道が緩やかに登り始めた。ふと目を上げると、あの懐かしい光の点を認めることができた。嬉しくなり、息せき切って道を進み、とうとう彼の城へ辿り着いた。ふと振り向くと黒い犬の姿はなかった。

 「おめでとう。よくぞここまで辿り着けた」門が開けられ、黒ベルベットの外套を身に着けた男が迎えた。年の頃は見当もつかなかったが、まるで世紀を超えて生きてきたような気怠さを纏っていた。
「ゲームは君の勝ちだ。シュヴァルツが君を驚かせてしまったようで申し訳ない。君を歓待するよ」
青白い顔をした男は諸手を挙げてこちらを迎えてくれた。
「夜通し歩き詰めでさぞかし疲れたことだろう。大したものではないが、食事を用意した」
奥の間へと招き入れられる。城の中は案外明るく、蝋燭の灯りが男の肌と同じ色の壁を照らし、それが部屋に反射しているようだった。
 奥の間のテーブルには干し肉や塩漬け肉、チーズの塊、そして深紅のワインが用意してあった。遠慮をする必要はないと促され、確かに空腹だったためがっつくように食事に有りついた。どんどん飲め、とばかりに矢継ぎ早にグラスにワインを注がれ、勧められるままに喉に注ぐ。
「口直しの水菓子もどうだ?庭に自生している樹木の実りが矢鱈良くてな。ここの中だけが肥沃な土壌らしいのだ」
食事はいわば保存食ではあるが味は良く、用意されたものは全て平らげてしまった。酒もしこたま飲み、軽く酩酊していると
「Badは如何かな」と声をかけられた。ふらふらと立ち上がり、男に支えられてそこに向かう。どうやって服を脱ぎ湯舟まで辿り着いたのか覚えていない。唯、生温かい液体に身体を浸され、眼前が紅い輝きで覆われていた。

 紅い湯舟に力なく横たわる若い肢体。既に事切れている。
「…悪く思わないでくれ。私は常人より少しばかり永く行き過ぎているだけで、生き永らえる為に血を必要としているだけなのだ」
湯舟の肢体を端に寄せ、中の液体を底の栓を抜いて樽に移す。移し切ったところで肢体と湯舟をワインで洗い、喉に流し込む。残った肢体は使役達が貪り、更に残った骸をダストシュートに投げ込んだ。壁の向こうの仕掛けがそれを合図に動き出した。歯車が活き活きと回り、骸は細かくされ肥沃な土壌へと還っていく。
ー全てこの世は事もなし。新しい血のグラスを聖杯に見立て、その芳香に酔いしれた。

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