Time Refugee

 嘗て、壁の向こうを焦がれていた男がいた。壁を越えた先を切望したまま、一生を終えた。壁の向こうを知ることもなく終えたのは、幸せだったのかもしれない。
 壁の向こうからやってきた男がいる。だが彼は、壁の向こうのことを失っている。ただ壁の向こうでの想いを引き摺ったまま、光を求めて藍色の闇の底を突き進んでいる。
 壁を越えたかったのも、壁を越えたのも、「向こう」に失えないものがあったからだ。「それ」を探し当てて、存在に安心するために。

 自分の掌に規則正しい鼓動が伝わってくる。ー遠いところから湧き上がってくる悲しみの鼓動。その遠いところに辿り着きたいと掌をそこに押し込む。
 それが心臓からの脈動だと程なく気づいた。そして、誰のものなのかも。自分と孤独を同じくしているものの音だ。
 何故君がそこに居るのかわからなかった。唯、馴染み深い輪郭の胸に安心した。それは、そこに在ることそのものへの安心感だ。「そこ」ならば総てを曝け出してもいいのだと。
 感覚がじっくりと掌から腕、腕から肩、肩から君の手までつながる。肩に触れている君の指はいつものように優しくそして必死だ。俺は君のその必死さに安心した。ーならば君はどうすれば安心できる?その気持ちに素直に躰が動いた。感覚は頭の先までつながっている。
 眼前に君の肩口がある。自然と頭をそこに預けた。君を「そこ」から失いたくない。今まで何度君を失いそうになったことだろう。その度に身体を引き裂かれる痛みを覚えた。そんな気持ちは最期の時だけでたくさんだ。
 俺は今日、いと高きところに君臨する王を失った。数年に一度風の噂を聞いて、「彼」の事を惟う日々が永遠に続いていくのだと確証もないのに思い込んでいた。失うことすら念頭になかった。
 掌と、頬に触れる首筋から伝わる鼓動が君の存在を確かにしてくれている。この鼓動が続いているのならば、俺はそれで構わない。
 今は、君が存在していることが有難い。
 君が身じろぐ。不意に、君の囁き声が耳にダイレクトに入ってくる。欲しい声と言葉を。君が僕を開放させた。

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