愛のうた

(承前)
 本当ならば君とは途中の駅で別れるはずだった。僕の決意で流れが変わった。君は“是”と言ってくれたけど、それでも少し不安だった。ー君が電車から降りなければこの賭けは成立する。
 君の降りる駅。君は開いたドアの向こうを一瞥した。ドアがものすごくゆっくりと閉まって、君はそのままここに居た。僕はどうやら緊張していたらしい。思わず吐いた溜息のあと、サングラス越しの君の視線を感じた。君は口角をあげていた。
 僕の降りる駅。君が隣に居る。僕の意識はもう10mも先を駆けている。コートを引っ張られて、足の運びは競歩程度にはされているけれど。
 僕の部屋に着く。扉の開く音に猫が鳴き声を返す。ー悪いけどきみの相手はしてあげられない。コートを脱ぐか脱がないかのうちに君を抱きしめ、貪るように口付けた。互いの息があがりそうな限界で口を外し、更に、と腕に力を込めようとしたところでストップをかけられた。
「お前、がっつき過ぎ。それにファンデが口に入る。せめてメイクだけは落とさせて」
そんなに慌てなくても俺は消えない、と君は間に入れた手を僕の胸に軽く押し付けた。君の手が僕の胸で小さく行き来している。それで漸く自分の呼吸の浅さを知った。
 交互にバスルームを使う。後に入った君は思いの外早く戻ってきた。「お前を待たせると風呂場で襲われちまう」から髪を洗うのを止めたという。背中に届きそうな迄に伸びた艶やかな髪。君によく似合っている。「少し寒い」と君は直ぐにベッドに潜り込んできた。抱き寄せると、君の少し冷えた身体が心地よい。昨夜と同じように毛布を高くして、君の背と頭を抱きかかえる。髪を洗ってないせいで君の匂いがダイレクトに伝わってくる。躯の熱が更に高く、そして力強くなった。
「お前の匂いがする」僕の肩口に顔を寄せていた君が嬉しそうに言った。僕はもうそれで何も考えられなくなった。

 二人して、身体をぴったりと寄せ合っている。さっきまで僕達は互いの細胞を交換しあっていた。とても幸福だ。
「このまま俺達融け合ってしまえればいいのに」そうすれば別れの切なさを味合わなくて済む。
「俺は嫌だな」君が切り返す。「だってつまらないじゃん。考えてもみろよ。名前を呼んでも隣に居ないんだぜ」
「ーこうして」君が顔をあげて僕の顎に頬を寄せる。「触れることも出来ない。お前の顔を観ることも出来ない。それは一緒とは言わない。ーそんなの俺は望まない」話す上顎の動きが温もりと一緒に伝わってくる。ー僕はなんてばかなことを考えてしまったのだろう。君が望まないことは僕もしたくない。自分がどんなにロクデナシでも、そこだけは筋を通す。もちろん、君が望むことは出来る限り叶えてあげたい。どこまでしてあげられるのかふと考えて、嬉しさにぞくぞくした。どこまでも出来そうな予感がした。
 ー翻って見れば。他人に心底から動かされることも、後ろに付きたいと思ったのも君が初めてで。君の姿、君の声、君の薫り、君の温もり、それを想うだけで身体中が満たされ、そして溢れ出て行く。
出逢ったのは大人!なってからだけど、もうずっと前から君を待っていた気がした。君が僕の前に現れるのをきっと。
「うん、そうだね。俺達お互いに待ちぼうけしないで済んで良かった」
 そうして二人して口をつぐんだ。二人の呼吸と心音と擦れる音だけが耳に届いた。


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