アルルカンの涙
辻弾きのヴィオロンの音が哀しく響く。彼は旅のシルクを待っている。この冷え切った石畳の上で、彼のシルクが巡って来るのを待っているー
嘗て彼は、小さなシルクで世界中を巡っていた。ヴィオロン弾きと、手弾きオルガンと、人形劇とそして美しい踊り子。
ヴィオロンは語る、あの夏の一夜の僥倖を。夜明けとともに散った愛を。アルルカンの至高と悲愁の涙を。
アルルカンは美しい踊り子に憧憬を抱き、半ば付き人のように踊り子の一挙手一投足を見守り続けていた。踊り子が彼の世界の全てだった。踊り子のために道化の化粧をし、滑稽な仕草をした。踊り子が彼を笑ってくれるだけで幸福だった。それでもいつか、踊り子の手を取ることが彼の大それた望みだった。
とある夏の日。シルクが訪れた小さな街は居りよく祭の真っ最中だった。老若男女のすべてが笑いさざめき、そこいら中で花や紙吹雪が飛び交う。男達は酒を酌み交わし、この世に苦しみなど無いように振る舞っている。彼らのシルクの他にもコメディア・デラルテや軽業師の姿も見える。シルクの人形劇には子供達が群がっている。
赤い月が昇り始め、黄昏が漸く終わりを告げようとするその艶めかしい一刹那、アコーデオンの旋律が高らかに響いた。ダンスの時間がやってきた。
夏の一夜の幻を踊り子は見た。煌々と輝く街並み。愉しげな人々のざわめき。そして自分はといえば熱に憑かれたような足取りでステップを踏んでいる。手を取らせたのは、踊り子に影と従うアルルカン。初めて踊る相手ではあるが、そのリードは今までの数多の相手達にも引けを取らないほど巧みでそれでいて押しつけがましくなく。彼に身を任せるのは天にも昇る心地で。踊り子は道化以外の彼の顔を初めて知った。
月の魔力かアルルカンの望みの具現化か、踊り子とアルルカン以外の時間が止まる。星の瞬きも、人々のざわめきもダンスの伴奏さえも。
アルルカンは踊り子の瞳を見つめる。この上もなく愛情深く、けれどどこかしら哀しい瞳で。どうしてそんな目をするのかと踊り子は問うが、彼はそれには答えない。
「私は知っている」アルルカンの耳元に踊り子が唇を寄せて囁く。「貴方がずっと私の傍らに在てくれたことを。そして」踊り子が必要以上に身を寄せ、その触れた部分が熱を帯びる。「私を好いてくれていることも」ダンスの型として背中に回していたアルルカンの手が踊り子の腰に下り、とうとう二人のダンスも止まった。彼の瞳を見上げたまま、踊り子の両腕がアルルカンの首の後ろに回された。どうなるのかと困惑するばかりのアルルカンに踊り子の瞳が肯定の意を語った。躊躇い、戸惑いながらもアルルカンは踊り子に顔を近づけ、唇を重ねた。夏の、熱気と狂気を孕んだ空気が却って彼を凍えさせた。それから逃れたくて、踊り子に躯を重ね合わせた。
アルルカンは踊り子とそのまま結ばれた。これこそが至福なのだろうと彼は感じていた。このまま、燃え尽きてしまっても構わないとさえ。ーその幸福の絶頂の最中、突然彼は背後から殴りつけられた。踊り子の劈くような悲鳴と、彼の背後へ問いかける声が耳に残った。「人の女に手をつけやがって!」シルクの団長が怒鳴りつけ、アルルカンを滅多打ちにする。踊り子がアルルカンを背中に庇い、団長の行為を糾弾する。曰く、あたしはあんたの女になった覚えはない、と。
「そんな事はどうだっていい。ーとにかくお前はクビだ!」団長は激昂したまま踊り子の腕を引っ掴み踵を返した。踊り子は団長に引き摺られながらも、必ず迎えに来るからとアルルカンに告げた。彼はそこで完全に意識を失った。
次にアルルカンが目を覚ました時には既にシルクの姿は無く。様子を見ていたであろう町の人々に尋ねても皆首を横に振るばかり。但アルルカンの傍らには、僅かばかりの彼の荷物と、彼が使っていたヴィオロン、そして踊り子の首飾り。踊り子の胸元でいつもきらきらと揺れていたのを覚えている。
首飾りを身に着け、ヴィオロンを構えて一節。瞬く間にシルクでの日々が脳裏に浮かぶ。
二節。首飾りの微かに揺れる音と、首飾りが纏っていた芳香が、昨夜の踊り子との濃密な時間を思い起こさせ、別れ際の踊り子の言葉に涙した。
彼はこの街の片隅で辻弾きとして日銭を稼ぎ、シルクを待った。月が巡り季節も巡り、また夏になり祭の季節が来ても、彼のシルクはやってこなかった。
それでも彼はヴィオロンを手に辻に立った。さらに歳月が過ぎ、彼が辻弾きをしている理由を知る者がいなくなっても、彼はヴィオロンを奏で続けた。
その街には、赤い月夜にどこからともなく咽ぶようなヴィオロンの音が聴こえてくるいう言い伝えがある。街の者はその夜は家から出ない。ヴィオロンを弾く幽霊が辻に出るからだ。
彼は今でも、彼のシルクを待ち続けているー