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中田たかしの非連続な成長曲線 ーベンチャー企業編ー

従業員100人のベンチャー企業へ
HPを退職すると決めた中田さんは就職活動を始める。
候補としてとあるIT系のベンチャー企業F社が目に留まった。創業者のK氏が面白い人物だと聞いて興味をもったからだ。早速知り合いの転職エージェントに話をすると「実際K氏はすごい人だが、F社は製造業が弱い。製造業をやりたいならお勧めはしない」と言われる。
この時は即決でやめたのだが、後にF社は現在中田さんが社長を務める会社を買収し親会社となった。その数年後中田さんはK氏から社長に任命されることとなる。強い縁を感じずにはいられない。
 
そんな折、HP時代に親交があった新川さんから声かかった。新川さんは外資系のCADベンダーP社のトップセールスで中田さんと同じS社を担当してた。新川さんもまた公私ともに破天荒な人物である。そのためか中田さんとは気があって、家族ぐるみで付き合いがあり信頼もしていた。
新川さんは新しいベンチャー企業に行くことにしたのだと言う。製造業をターゲットにしたコンサルティングを行うN社という会社だった。まずは1回遊びに行こうと誘われ中田さんはN社に出向いた。
そこでN社社長の鈴木一郎氏に出会う。初対面での彼のインパクトは強烈であった。ものすごい速さでしかもノンストップで一方的に話を聞かされた。中田さんはこの時、嘘か本当か分からないがこれだけ自信満々にこうあるべきと言えるのはすごいと純粋に感心した。気がつくと採用の面談であるにもかかわらず中田さんはほとんど喋らずに終わっていた。
 
元々アメリカに行って新しいことやろうと思ってた。それに比べれば日本だし環境的なハンデはない。30万人の巨大外資系企業からいきなり100人のベンチャー企業に行くのも面白い。まあいいかと、就職活動を始めて1ヶ月後、中田さんはN社に入社した。ここから、中田さんの新たな成長曲線のスタートである。
 
コンサルティング会社で営業をやるということ
N社はコンサルティング会社である。ハードウェア中心のインフラ系ビジネスとは異なり、コンサルティングという無形のものでお客さんと一番最初の企画を練るようなところを提案する。当時N社ではこの企画・構想段階のコンサルティングをグランドデザインと呼んでいた。グランドデザインは経営視点で改革の上流から入ることができる。上流から入れば、業務改革からシステム導入まで一気通貫でお客さんの改革に伴奏することができる。また、企業の業務課題はあらゆる部署に大小交えて多く散在するため、全社挙げての改革も提案でき1社で大きい金額を受注しやすい。
しかし、N社はHPと違って知名度が全くない。会社の名前では何もできない。HP時代は昔から付き合いのある大手企業を担当していた。大手の場合、チームで動くし、長年蓄積された情報もある。
ベンチャー企業のN社では新規客を一から開拓しなければならない。当然情報はなく、1人で動かなければならないことも正直きつかった。
その中で中田さんは苦労しながらも、自分自身の価値を目の前のお客さんにどう感じてもらうか、短時間でいかにそのお客さんの訴求ポイントを見つけるかということを強く意識するようになっていく。
 
新規客の開拓ではセミナーで顧客リストを集めるところから始める。セミナーに来るお客様は大抵は情報収集が目的である。特にコンサルティング案件はお客さん側でやりたいことが明確になっていて直ぐに提案となることは少ない。
ただ、既にやることが決まっていて予算がついている場合は必ず競合もいる。そうなるとお客さんの方も慎重になりあまり情報を出してくれない。
逆にお客さんの調査段階からコンタクトできるとメリットもある。相談に乗ると喜んでくれて、色々と情報を聞き出せる。中田さんは案件化する前の状態で入り込むことはすごくいいことなんだと感じるようになる。
普通の営業は「情報収集です」と言われまだまだ時間かかると思うと「その頃また声かけてください」と引き下がる。だが、声をかけられた時は競合もいるし当て馬にされることもある。
中田さんは確率を上げるためにも絶対に競合しないで取りたかった。そのために相談段階でいろいろ話をすることをかなり意識した。もちろん受注までの足は長くなる。最初の半年ぐらい数字は出ない前提で動いた。営業は数字が上がらないと不安になる。だが、ブランド力のない会社で領域も全く違うことをやるのだから、やり方を変えなければならない。中田さんは最初から目の前の一円を取りに行ったら駄目だ、大きな案件を取るために半年間は受注ゼロでもいいと腹を括った。
 
予定通り半年後、最初の受注をした。工作機械メーカーのO社だった。
O社では製造業において設計、製造する上で不可欠な部品の基本情報である部品表(BOM:Bill of Material)の見直しを検討していた。O社の担当者は課題意識がある人で設計領域にかなりの知見を持っていた。
いつもの得意技で中田さんは、自分の父親と同年代のそのお客さんの懐に入り仲良くなった。外で飲んで彼の家に泊まり、翌朝奥さんが作ってくれた朝ご飯を食べ、そのまま一緒に工場に行ったこともあった。
当時N社は製造業のものづくりプロセス全体におけるBOMのあるべき姿を提唱しており、それは他ではあまり語られていな革新的な考え方だった。そこにO社のお客さんは興味を持ち、その構造や実現について中田さんに議論を持ちかけてくる。中田さんもそれに応えた。ある意味、営業提案前の段階でコンサルティングしているようなものだった。中田さんはコンサルティング会社の営業はお客さんと議論できるくらいでないと受注できない、お客さんのブレーンになることが自分の仕事だと考えるようになる。そのための勉強もかなりした。
ブレーンの自分がさらにすごいコンサルタントを連れてきたとなるとお客さんも「おおっ!」となる。
 
中田さんを変えたN社の人々
コンサルティング会社ではコンサルタントという人材が商品であり、その質を左右するスキル、能力、知識が最も重要である。やりたいと思ったことを手段を選ばず自力で実現し、自分が最強だと思っていた中田さんにすごいと思わせ、考え方を変えさせたコンサルタントがN社には何人かいた。彼らとの出会いによって、中田さんは1人でできることの限界と互いの足りない部分を補い合うことで大きなパワーとなることを知る。同時に社内の人をリスペクトする事を覚えた。
 
その筆頭が高さんである。
中田さん曰く、人間的には欠陥だらけだが能力はとにかくすごい。仕事に対するストイックさも衝撃的だ。寝ないで働き、朝出社すると高さんが机で寝ている姿を目撃することは日常茶飯事。食事はオフィスグリコのお菓子、服はいつも同じものを着ている。今の時代、行政から指導が入るやばい案件であるが、高さんは誰に強制されることなく自らやっていた。それもダメだが。
また、高さんはとにかく論理的だった。彼の全ての判断基準はロジカルでその徹底さはすごい。お客さんにも決して媚びない。コンサルタントといえども、お客さんの言うことを受け入れて迎合してしまう人が多いが彼は違う。
そこが、中田さんと補完関係にあった。中田さんはまず営業としてお客さん側に入り込んでお客さんの気持ちなりながらも「でもこのままじゃダメですよね、だから変えていきましょう」という改革に踏み出してもらうための変化の必要性を訴求をする。この変化の訴求を加速させるのが高さんだ。
初っ端から高さんが行くと、お客さんを論理的にやりこめて終わってしまう。中田さんが前段階を全部処理から高さんが登場すると、お客さんは「中田さんが言ってたことがすごく整理できました」となるのだ。
 
2人目は矢島さんである。矢島さんはずば抜けて頭がよく、人の何倍も勉強をしている。学者以外で矢島さんの読書量、勉強量に敵う人はいないかもしれないと思わせるほどだ。彼の言ってることは難解で伝わりにくいが、一つ一つ紐解くと裏側にすごい量の情報がある。自分なりの考えを持ってあらゆることを勉強した結果のアウトプットは質が高い。そういう意味では彼もストイックなのである。
矢島さんは今社長の中田さんの配下でビジネス企画を行なっている。中田さんは5年後の売上げを今の倍の100億にすることを経営目標に掲げている。
これに対し、矢島さんは「100億でいいんですか、10年後1000億目指さないんですか」と言う。中田さんが「いや100億いかないとそれはないからさ」と言うと、「100億の話をするのと1000億の話をするのでは全然違いますよ」と返す。今から1000億を目指して戦略を立てようと言うのである。彼は真剣だ。ストイックなだけでなくぶっ飛んでいる。
 
3人目は今も中田さんの片腕であり、現執行役員でもある植田さんを紹介する。
植田さんは高さんにも引けを取らないほどロジカルな人である。コンサルロボのような高さんと違うところはもう少しだけ人間味があり、何より製造業に対する想いがある。もともと大手コンサルティング会社にいた植田さんは、製造業を担当し管理会計系のシステム導入のコンサルタントをしていた。だが、お金の流れをいくら清流化、見える化してもものづくりが根幹の製造業では意味がないと考え、N社に転職してきた。植田さんは製造業を変えていきたいという強い想いで、鈴木一郎氏のBOMの概念をどう具現化できるのかを真剣に考えていた。
彼は今の会社で2012年に中田さんと共に数人でコンサルティング事業を立ち上げた。中田さんは営業として仕事を作り、植田さんはコンサルタントのトップとして確実にプロジェクトを推進しお客さんの改革を成功させる。事業は2年で黒字化し、あっという間に会社で一番の高収益事業に成長する。
この成功は植田さんなしには語れないし、中田さんの社長就任も植田さんがいなかったら実現しなかっただろう。
唯一と言える彼の弱点は諦めが早いことだという。あるアンケートでは未来志向の項目が極端に点数が低かったらしい。現実的な路線で確実に成果を出す植田さんは、50億の企業で1000億の話を持ち出す矢島さんとは真逆の思考である。これもまた多様性なのだろう。
 
N社の終焉
N社には、一部では突出した能力を発揮するが、どこか欠けているところがある人材が大勢いた。HPなどのメーカーでは、平均的になんでもこなすジェネラリストが多いが、N社はまさに多様性人物の宝庫であった。中田さんはN社を動物園だと表現する。この動物園は動物ごとにゲートで別れておらず、草食動物も肉食動物も同じ場所で自由に動き回っている。なぜか小動物もちゃんと生きている。
N社はなぜそういった多種多様で優秀な人物が集まって来たのだろうか。
その理由は鈴木一郎という人物が、これまで日本では馴染みがなかった部品表(BOM)やPLM(Product Lifecycle Management)という製品情報管理の新しい概念と改革コンセプトを持ち込んだことではないだろうか。みんなが消化不良に感じていたものづくりの根幹となるに製品や部品情報をどう高度化し変えて行くのかという一つの解を製造業に対して思いっきりぶち込んできた。そこが鈴木一郎氏の凄さであり、その可能性を信じてみんなが集まった。
N社は2000年に設立以来東証マザーズ上場を目指し、急勾配の右肩上がりで業績を伸ばしていた。ITバブルとも言われていた時代に社員にとって株の配当もまた大きなモチベーションの一つであった。

しかし、N社は念願の東証マザーズ上場を果たしたものの、その後業績が急激に悪化し上場廃止となった。そして最終的に事業再生を柱とするコンサルティング会社に譲渡され設立から10年あまりで消滅した。
鈴木一郎が提唱し続けた日本の製造業への改革コンセプトの実現は道半ばで終わってしまった。
 
中田さんはN社で一つ学んだことがある。会社は株主のためであり、お客さんのためであり、従業員のためであると同時に、もう一つ社会のためでなくてはならないということだ。これだけの人材が集まったのに、結局会社が壊れてしまったということは、サスティナブルにこの会社が社会に価値を出し続けていくという確固たる信念もなかったからだと中田さんは思う。
現に設立時はマザーズ上場が社内で繰り返された一番のゴールであった。
鈴木一郎氏以下役員であった創業メンバーは当時は皆30代で若かったこともあったかもしれない。お客さんである製造業を盛り上げたいという想いは確かにあったと思うが、いつの間にか個人が儲かればいいということが先行してしまったのではないか。
徐々に翳りが見えてきたN社に対し、オーナー企業である限り変わらないと中田さんはN社を去ることを決意する。
 
新たなステップへ
中田さんをN社に誘ってくれた新川さんは、実はCAD設計の人材を派遣する会社を経営していた。N社では2足の草鞋が許されており、新川さんの会社であるO社からもN社のプロジェクトにコンサルタントが派遣されていた。新川さんはすでにN社を退職し、O社の方に本腰を入れていた。彼は本当の意味で製造業に必要なコンサルティング会社を作りたいという想いを中田さんに語り、一緒にやろうと持ちかけた。N社での教訓から中田さんもまた彼の考えに賛同した。
O社への参画にあたり、中田さんはN社の社員何人かに声をかけた。N社には優秀な人材がたくさんいたが、製造業に対する想いがある人を選び、一人一人に丁寧に説得してけ6人にO社にきてもらった。その中に矢島さん、植田さんもいた。
 
N社ではコンサルティングで企画したグランドデザインを現実的に効果を出すところまで、どのプロジェクトにおいても持っていけなかったことを中田さんはずっとひっかかっていた。O社ではCADというソリューションがあり、最終的に設計の現場にCADを導入して運用を回し効果を出せるところまでできたことは中田さんにとって大きいと感じていた。
しかし、CADは設計現場に閉じた改革であり、O社ではそれ以上のことはできなかった。中田さんの中で、経営的な成果にはつながるところまでをやり切りたいという想いが募っていく。実際に製造業に入り中から改革をすることを考え始めていた。

※登場人物の名前は全て仮称です。


 

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