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中田たかしの非連続な成長曲線 - 新入社員編 -

はじめに
二十年ほど前、あるベンチャー系コンサルティングファームの社員旅行で上海に旅立つ前の羽田空港でのことである。真っ赤なベストを着た見知らぬ若い男性がスーツケースを転がしながら集合場所に現れた。来月から営業として入社するというその男性は、ほとんどが初対面の社員に混じり海外旅行に出発するという状況にも関わらず、全く物怖じせず、集まった社員の輪の中心で大声で談笑している。その姿は驚くほど場に馴染んでいた。それが今回の主役中田たかしさんとの出会いであった。
その頃の中田さんは、自信家で怖いもの知らずという印象であった。だが、なぜか憎めず、顧客との関係作りには秀でた能力があり抜群の営業成績を上げていた。
数年後、そのコンサルファームはマザーズに上場したものの海外投資に失敗し、ある企業に買収されて消滅した。中田さんも私もそこを別々に退職したが、十数年ほど前YDCというIT企業で偶然にも再び出会った。
中田さんは何人かの仲間とともにYDCで新しくコンサル事業を立ち上げたところだった。事業部長としてこの事業を会社で一番の高収益事業に成長させたのち、一昨年、ロシアがウクライナに侵攻したその日に中田さんは突然YDCの社長に就任した。私が出会ったころのガチ体育会系、オレオレ営業(あくまで私のイメージだが)だった中田さんからは想像し難い変貌である。

中田さんが重視していることは非連続な成長。企業は同じ事業で永遠と成長していくのではなく、変化しながら次の新しい事業の成長曲線にシフトする。この非連続な成長曲線を何度も描きながら企業自体が右肩上がりで成長するのがあるべき姿。人も同様。中田さんも自身が変化しながら、この非連続な成長曲線をいくつか経て、現在YDC社長としての成長曲線を描いている。今回は中田さんが辿った非連続の成長曲線のうち、社会人としての最初の成長曲線を紹介したい。

非連続な成長曲線

就活での面接を楽しむ
中田さんは1997年新卒で日本ヒューレット・パッカード(HP)に入社した。
なぜHPか、そこに強い思い入れはなかった。就活中に慶應の友人がHPの説明会に呼ばれたと聞いて、中田さんも勝手について行った。実はその説明会はいわゆる一軍大学である東大、京大、一橋、早慶などの学生が呼ばれており、そこに属さない学生の中田さんは本来なら説明会にでる資格はなかった。一軍大学の学生に内定が出た後、MARCHと呼ばれる二軍大学の学生に声がかかる。本来なら中田さんはここで初めて資格を得るのだが、当時はチェックが緩かったのだろう、すんなり一軍大学対象の説明会に潜り込むことができた。
結果、内定までもらってしまった。

余談だが、中田さんは就活で138社受けた。就職氷河期だったこともあるが、HPに内定をもらった後も受け続けた。途中からは面接自体が面白くなり、何社受かるかゲーム感覚で楽しむようになっていた。結果39社から内定をもらったと言うから打率は3割弱、バッターとしてはそこそこだが、就職氷河期で一軍大学でもないことを考えるとかなりのものではないだろうか。ここまでやる学生はいないので比較するものは多分ないとは思うが。
この経験でよかったことを中田さんは2つあげた。
一つは、学生である自分に大人が業界のことを色々教えてくれる。生の声で社会を知ることができた。
二つ目は、面接をしまくったおかげで度胸がついた。社会に出た後、誰と話しても怖く無くなっていた。
普通なら避けたいことを楽しさと経験に変えてしまうところはやはりこの方ただものではない。

営業になるために役員に直訴
入社式では壮々たる名門大学の学生を差し置いて、なぜか中田さんが新入社員代表の挨拶に選ばれた。当日は新入社員のほぼ全員が紺のスーツで出席している中、茶色の縦縞のスーツに赤のワイシャツ、ピンクのネクタイという服装で壇上に立ち、そこで選手宣誓をした。人事は失敗しなさそうという理由で中田さんを選んだようだが、例年通りつつがなく式を終えるつもりが大誤算である。

入社後、中田さんは納得できないことがありずっとその思いを燻らせていた。
HPは例年営業職と技術職の採用があり、中田さんは営業職で採用されたはずだった。だが、蓋を開けたらその年の新入社員全員が技術職採用であった。毎日八王子の研修センターでエンジニアの研修を受けながら、なんとか営業に移りたいと考えていた。
中田さんには尊敬し、慕っている先輩がいた。入社後の会社説明会で先輩社員として登壇し、その話に感銘を受けた若き営業のエース重岡さんである。重岡さんに相談すると、「役員に直談判するしかない、営業役員の山本さんなら聞いてくれるかもしれないよ」というアドバイスを受ける。中田さんはすぐに行動に移した。山本さんの内線番号に電話をするとたまたま本人が出た。
「相談したいことがあるのですが」「わかった。ならば夕方5時に新宿に来い」すぐに話が通じた。

八王子での研修は17時半まで、17時に新宿はどう考えても無理である。その日の午後、中田さんは突然の腹痛に襲われ早退することになる。そして電車の中で急に腹痛が治り、そのまま新宿に向かった。
今回の人事は実は裏があった。アメリカのヘッドクオータから割り当てられる売上計画に対して、日本は昨年未達、本年度も達成できないことが見えていた。その言い訳として苦肉の作でコストセンターである営業には新人を配属しないことになったのだという。
中田さんの話を聞いた山本さんは、話はわかったがこの決定を下したのはもう1人の役員である黒木さんなので自分はどうしようもできない。どうしても営業に行きたければ黒木さんを説得しろと言う。新宿まで来て肩すかしであったが、その時山本さんは一つ武器をくれた。黒木さんにお願いするときに一度だけ山本さんの名前を使っていいと。

たった一度だけ使える武器
翌日、黒木さんに内線で連絡した。今回は秘書が出た。黒木さんにお会いしたいので取り次いで欲しいと伝えると、要件を聞かないと取り次げないという。社員が会いたいと言っているのに要件もクソもあるか!と思ったがここはグッと飲み込み、「同期で黒木さんに憧れている人が何人もいる。ぜひ有志で飲み会をしたい」と咄嗟に思いつきで答える。そう言われて悪い気がする人はいない。黒木さんからは快諾をもらう。

中田さんは同期に頼み込み10名ほど集めて飲み会に臨んだ。初めは楽しく飲んでいたのだが、突然黒木さんの方から「ところでお前何か話があるんじゃないか」と切リ出された。
中田さんはここぞとばかりに「営業に行きたい」と本心を伝えると、たちまち黒木さんの顔色が変わった。自分が決めた配属にもの言う新人にガチに詰めてきた。「お前は営業に行ったら6億達成できるのか(当時の営業のノルマ)」「できるというならその根拠はなんだ」理詰めで迫られた。営業の経験もない新人がノルマを達成できる根拠などあるはずがない。口の達者な中田さんがぐうの音も出なかった。社会人としては何の経験もない新人と百戦錬磨の役員との圧倒的な差である。
さらに黒木さんは畳み掛けるように言った。
「そもそもお前を受け入れてくれる人がいるのか。誰もいないだろう」
その時である、中田さんはここだ!と思った。あの武器だ。
「山本さんが受け入れてくれます」
「では、今ここで山本さんに確認するぞ」
黒木さんはその場で山本さんに電話をかけると、山本さんが電話ごしにOKを出してくれた。
絶妙なタイミングで最も効果的に唯一の武器を使うことができた。才能なのか、運なのか、いや、この後の営業中田さんが巻き起こす想像を絶する事件を聞くとこれは運命と言えるかもしれない。

いよいよ営業へ
翌日八王子の研修センターに出社すると、上司から営業に配属が変わったから今すぐに新宿に行けと言われ、そのまま新宿に向かった。
営業部ではみんなが中田さんのことを知っていた、役員に直談判して無理やり営業にきた新人の噂は広まらないはずがない。流石の中田さんもあまりのプレッシャーに配属1週間で吐いた。
配属先の営業部も戸惑った。そもそも新人の配属はなかったためなんの受け入れ準備もない、体系だった教育もなく中田さんはひたすらOJTで学ぶしかなかった。

営業での研修期間が終わり、数ヶ月後正式配属で大阪に転勤となった。大阪での配属先はメジャーアカウントと呼ばれる大企業を担当する部門である。
そこで岩井さんという上司に出会う。中田さんがHPで最も影響を受け、今でも感謝している人の1人である。岩井さんは普通の人からするといいマネージャーとは言えない、どうしていいかわからないときにはなんの役にも立たないというのは中田さんの言葉である。
基本的には放置で何をしても怒られない。岩井さんは中田さんに「お客さんから10年後に中田さんからこの製品を買ってよかったと思われなければだめ。そのためなら何をしてもいい。何かあったときは俺がケツを拭いてやる」と言った。
そしてしばらくしてあの事件が起こった。

出禁事件
ある大手電気メーカーS社のCIOに出入り禁止を食らった出来事があった。
当時中田さんが担当していたS社は全社でオープン化を進めていた。工場は前向きで順調に商談が進んでいたのだが、なぜか本社のCIOが止めていた。外部から天下り的に就任した役員であった。なんとか説得しようと岩井さんと共に中田さんはS社本社を訪ねた。
するとそのCIOは「システムのお守りはそのままI社にやらせておけばいい。オープン化とかそんな面倒くさいことHPさんがやることないでしょ」と言う。
カチンときた中田さんは「あんたみたいな人がいるからこの会社は良くならないんだ」と食ってかかった。お客さんに「あんた」呼ばわり。当然の如く、CIOは烈火の如く怒りだした。隣にいた岩井さんにも「上司としてどう思っているんだ」と火の粉が降りかかる。すると岩井さんは
「お客様が怒っているのは中田の口の聞き方でしょうか、それとも中田が言った内容でしょうか。中田の口の聞き方であればこれはもう良くありません。謝ります。ですが、内容であれば私も全く同感です」
と返した。なんとも痺れる返答である。その場で中田さんは出入り禁止となったのは言うまでもない。その後、中田さんは担当を外れたが、岩井さんが引き継いでなんとか関係を続けたそうである。お客さんのことを思ったがゆえにやらかしてしまった中田さんのまさにケツを拭いてくれたエピソードだ。

ストーカー営業で30億受注
中田さんはある年、年間30億の売上を達成した。通常の営業ノルマは6億であるから、5倍の売上である。その年、担当していた半導体メーカーの客を全て半導体専任営業に移管するように言われた。移管した分は新規で補うしかなく、納得いかなかったが渋々従った。
ところがある日、既に他社にほぼ決まっているある半導体メーカーの100億案件をひっくり返すように言われる。半導体専任営業ができなかったからだ。
超大手メーカーのM社とITの巨大企業F社の社長同士のバーター案件で、ひっくり返すのは100%不可能である。M社の半導体工場は新潟にあり、岩井さんからは受注するまで帰ってくるなと言われて新潟に旅立った。
現地に着いたものの、社長同士が決めたことである、別のメーカーの営業と一緒にいるところを見られるだけでまずいと担当者は会ってもくれない。
もうこれは無理だと東京に戻ると、岩井さん、「あれなんで戻ってきちゃったの?受注するまで戻ってきたらダメだって言ったよね」無邪気に圧をかけてきた。朝の部会にも出させてもらえず、そのまま新潟にトンボ帰りとなった。
新潟に戻ってからは、ストーカーと化した。先方の担当者も出張でホテル暮らしをしていたため、彼のホテルと部屋番号を総務の女性から聞き出して隣の部屋をとった。彼がホテルに戻り部屋のドアを開ける音がするとすぐさま部屋の前でノックする。ドアを開けてくれるまでノックし続ける。朝は部屋を出る音がすると中田さんも出て、一緒にタクシーで行きましょうと誘い、工場まで送った。中田さんはもちろん工場には入れない。
流石にその担当者も疲弊して部屋を変えるが、すぐに調べて中田さんもまた隣の部屋に移った。会社の敷地内では話が出来ないからと中田さんも必死だったと思うが、尋常ではない。今だったら、速攻アウトな行為である。

そのうち、担当者も慣れたのか、諦めたのか、徐々に打ち解けて色々な話をするようになった。
当時F社の工場では同様のシステムがHPのサーバーで動いていることはわかっていた。工場ではシステムの稼働を絶対に止められない。システムトラブルによる工場の中断は巨額の損害を与えるからだ。そんな環境においてF社は自社工場においてF社製品ではなくHP社の製品を稼働させていたのだった。そんな話も何気なくM社の担当者に吹き込んでいた。

そしてある日、F社との打ち合わせの場でその話が持ち出された。それを聞いたM社の責任者にはかなりのインパクトだったのだろう。「F社のサーバーで動かしたことのないシステムを納期が厳しい状態で動かせるのか」「ミッションクリティカルな環境を自社でも実現していないF社にできるのか」とF社エンジニアを問い詰めた。エンジニアというのは真面目な人種である、つい「不安がある」と口にしてしまった。そこからは喧々諤々、結局100億全てはひっくり返せなかったものの一部ハードウエアをHPに変更となった。その金額が約30億。トップ同士が合意して決まっていた案件の全てでないにしろ30億ももぎ取ったことはとてつもない快挙である。
受注が決まり新潟から戻ってきた翌日中田さんは過労で倒れそのまま入院した。

30億受注のその後
当時のHPは営業が100%以上達成するとかなりのボーナスが出た。その評価は部門での達成率であり、当時30億以上売り上げた中田さんのおかげで達成していないメンバーもかなりの恩恵を受けた。ボーナスの計算方法が基本給に達成率に応じた月数をかけたものであったため、当時一番年下で基本給の少ない中田さんのボーナスが最も少なかった。納得できない中田さんは、部門のメンバーにメールする。
「一番稼いだ私がボーナスの金額が一番低いのはおかしいと思いませんか。皆さんが受け取った金額のうち、この分は中田の分だと思う金額を以下の口座に振り込んでください」
当然振り込んだものは誰もいない。それどころか誰かがこのメールを人事に転送たらしく、中田さんは後日人事に呼び出されこっ酷く怒られた。

終わりに
HP時代に中田さんの社会人としてのDNAが形成されたと言っても過言ではない。やりたいことは口に出して全力でやる。そんな頑張っている姿を見て、色々な人が助けてくれた。重岡さん、山本さん、岩井さん、その他営業のOJTでお世話になった先輩などみんながギバーだった。
一方で、当時を振り返って、中田さんは、「自分が全てと思っていた。他の人に対するリスペクトがなかった」とも言う。そして、HPでのイケイケ営業のまま中田さんは私がいたコンサルファームに転職してきた。私が最初に中田さんに受けた印象そのままに。
中田さんが1人でできる限界を知り、チームで価値を最大化することの重要性に気ついたのはこの転職で出会った人たちと仕事をしたことがきっかけである。
ここで中田さんの次の成長曲線にシフトするわけだがそれはまた別の機会に紹介することにしよう。

※ 登場人物の名前は全て仮名です。



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