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中田たかしの非連続な成長曲線 - 人生の転機編 -

お客様に価値を提供するということ
中田さんがHPに入社して3年が経っていた。この頃中田さんは大阪で大手電機メーカのS電気とM電工を担当し、異なるビジネス領域で大きな成果を出していた。その一つがHPで昔から脈々と続いていた半導体の製造実行システムでMES(Manufacturing Execution System)と言われる領域である。台頭する新興勢力を阻みながら売り上げて行った。新入社員編で紹介したF社独占契約の一部を無理やりもぎ取った商談もこれである。
もう一つは、新しいビジネス領域へのチャレンジだ。当時は外資系のアリバという間接材調達システムが日本に進出してきたばかりの頃だった。間接材とは製品の原材料や部品などの直接材に対し、それ以外の生産に必要な消耗品や工具などをいう。その頃直接材の電子調達の必要性と効果については色々と言われていたが、間接材はまだ誰も目をつけていなかった。間接材は束ねるとそこそこのボリュームがある、コストダウンの効果はバカにならない。HPではまず社内で間接材調達の標準化や統合を進め、その事例を踏まえてお客さんに提案することになった。

中田さんはこれをM電工に提案することした。まず、情報システム部門に話を持って行った。知り合いの情シス担当者からは「面白いけどうちでは無理だよ。そもそも間接材は各部門や工場が自由に発注していて統括する部署がない」と言われる。「誰だったらできますか。」と食い下がる中田さんに、彼は「肥後さんかな。」と教えてくれた。
肥後さんは経理の担当部長という肩書きであった。担当部長というと部下を持たない部長格というイメージがある。中田さんは気楽な感じでM電工の代表番号に電話をかけ、肥後さんを呼び出してもらった。
「いい提案をするのでお時間をいただけませんか」と言うと、肥後さんから提案日を1ヶ月後に指定された。

1ヶ月後、中田さんは同年代の若いSEを連れ2人で訪問した。会議室に入ると肥後さんを真ん中に両脇にそれぞれ部長2名、部長の脇にも課長が2名づつ計9名が座っていた。後で知ったのだが、M電工での担当部長は部長を統括する役割であり、役員一歩手前の役職だった。また経理部門は経営企画、経営戦略を担う。肥後さんはまさにこの商談の意思決定者だったのだ。
開口一番肥後さんが「これだけのメンツを揃えさせ2時間も拘束して、君は我々に一体どんな価値を出すことができるのか」と言う。この圧迫された状況の中で中田さんが一通り説明を終えると、肥後さんは「で、君は私にどうしてほしいのか」とさらに圧をかけてきた。
中田さんは「御社にとっても必ず効果が出る取り組みだと思います。1ヶ月間無償で付き合うので是非このシステムを検証して頂きたい。検証の結果、効果が出ると分かったらその時は大きな投資をしてください」とその場で言い切った。言っておくが、中田さんにはなんの権限もない。
その翌日例の情シス担当者から電話がかかってきた。肥後さんが全社に号令をかけ、IT、経理、資材、調達、各部門から名指しで人を集め、プロジェクトチームを立ち上げ始めたという。その後すぐに肥後さんからも電話がかかってきた。「やるぞ」と。

かましたハッタリで後にひけなくなった中田さんは社内を奔走、役員、本部長に交渉してHP側のメンバーを急遽揃えてもらった。人を集めたものの検証すると言っても、扱い始めたばかりのシステムでHPには経験もメソッドもない。
しかしそこは大手のHP、なんとか1ヶ月検証をやり切り、間接材の調達の総額と仮に30%減らした場合の効果が試算できた。
その報告を受けた肥後さんは中田さんに言った「システム立ち上げにはいくら必要なのか」。中田さんはその場で「最初のフェーズで6億です」と答えた。簡単な試算はしていたがHPでも初めてのこと、明確な根拠はない。
1週間後、肥後さんから電話がかかってきた。「やるぞ」と。
もともと間接材調達のシステム構築予算を組んでいた訳ではない。肥後さんは当時の社長に直訴して予算を取ったという。たった1週間で6億もの予算をである。

このプロジェクトでM電工は今まで無かった間接材のチームを社内に作った。そこに有識者を集め、HPも入り、単なるシステム導入ではなく、まさに業務改革を推し進めた。かなり厳しいプロジェクトであったがそれでも半年で立ち上た。このシステムは2023年まで20年近く動いていたと言う。
システムを入れるだけでなく、体勢を作り間接材調達のガバナンスをかけていくというコンセプトを明確にして改革を進めた。調達データを使って分析、毎年サプライヤーサミットを実施し、購買先の入れ替えを積極的に行なった。
常に変化を続けるという大きな改革を成功させた、これは若い頃の実体験として非常に大きかった。自分たちのやるべきことはお客様を変えることだと強く思った。

人生における最も重要な出会い
後にも先にも、M電工で肥後さんのような信念と行動力のある人はいないと中田さんは思う。
M電工では創業者の「経営は人と金」と言う教えに基づき、優秀な人材は人事と経理に配属される。前述の通り、M電工の経理部門はお金を扱うだけでなく、経営企画、経営戦略を担い経営に近い。経理に配属されると2年間情報システム部に出向する。ITで出来ることを徹底的に勉強する。その後事業部経理と言われている現場に近い経理に配属され、優秀な人材のみが本社経理に戻される。ITが分かり、事業が分かり、財務が分かる人材がいる本社経理は絶対的な力を持っている。たから本社経理からCEOもでる。その仕組みを作ったのが肥後さんだ。
その頃ITを経営の根幹だと思っていた肥後さんの先見の明はすごい。IoTだDXだと言われている今の時代でさえ、IT部門が経営の根幹を担っている会社は少ない。

肥後さんはある日飲んでいる時に中田さんに言った。
「自分は高卒だからこれ以上上がらない。だが、高卒の自分にここまでの役割を与えてくれるM電工に感謝しかない。だから、自分はM電工の役に立つことはなんでもやる」胸が熱くなる言葉だ。
プロジェクトのキックオフから2週間後、M電工の人事が発表され、肥後さんは部長列から唯一執行役員に上がり、半年後に取締役に昇格した。高卒で取締役になるのはM電工では異例の人事であった。最終的に肥後さんは副社長まで上り詰める。
中田さんにとって、肥後さんは人生において最も尊敬する人である。今でも節目、節目で肥後さんに相談をしている。YDCの社長のオファーを受けた時も、肥後さんの「大丈夫じゃないか」という一言が背中を押した。

HPからの旅立ち
1999年、中田さんは東京にいた。CNNでS社の社長I氏の「アメリカはもっとS社をリスペクトすべきだ」というプレゼンを聞いてかっこいいと思い、本部長に直訴して半ば強引に東京に戻りS社の担当となっていた。
この年、カーリー・フィオリーナがヒューレット・パッカードのCEOに就任する。就任後の2002年にHPはコンパックの買収を行なった。当初はサービス部門を拡大する目的で大手コンサルティング会社を買収するはずだったが成功しなかった。そのため、同じハードウェア会社のコンパックにターゲットを変更したのだ。この買収により、HPは株価が一時的に上がり、売り上げもIBMを抜いて世界一になった。
中田さんはハードは安くなる一方であるにも関わらず、ハードウェア会社がハードウェア会社を買収するという会社のポートフォリオに戦略を感じなかった。その後、期待された成果がでず業績も下がり、フィオリーナは2005年に辞任した。
中田さんは入社以来製造業を担当しているうちに、日本の製造業を変えたいという想いを強くしていた。だか、それはハードウェアではないとも思っていた。HPはハードウェアの会社である。初めのうちはその事例が先進的で面白かったが、HP製品もだんだんコモディティ化をしてきていた。

ハードウェア会社であるHPには興味がなくなっていた中田さんだったが、グローバルを知っておくことは必要だと考えた。そこで、外資の利点を活かし社内のアメリカ派遣プログラムに応募することにした。英語はできないが行けばなんとかなる、部長以上でないと応募資格がなかったが、いつもの強引さで本部長に推薦状を書いてもらい審査を通過する。
派遣先のアメリカ人上司との電話面談では、英語が堪能な同期を隣に置き、こちら側では日本語で筆談しながら、スピーカーフォンにして彼に会話させた。これもなんとか乗り切った。

3ヶ月後に渡米を控え、中田さんはアメリカから帰って来たときのキャリアを考えた。帰国した人のキャリアを調べるとポジションがあまり上がっていない。アメリカとの交渉役のような立場になるか、退職して外資系企業を渡り歩くか。身につくものは海外とのコミュニケーション力と人脈だけなのかと、アメリカに行く意味を感じなくなった。アメリカに行かなければこれ以上HPにいる理由がない。アメリカ行きが翌月に迫ったある日、中田さんは突然辞表を出す。そして、2006年、1997年に新卒で入社してから約9年間勤め、中田さんの社会人としてのDNAを形成した愛着あるHPを去ることになるのである。

※登場人物の名前は全て仮称です。

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