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「Brown Sugar」 ローリング・ストーンズ

1971年の「スティッキー・フィンガーズ」のオープニングを飾るこの曲は、ローリング・ストーンズの代表曲の一つだ。軽快なノリと終盤のコール&レスポンスは長らくライブにおけるハイライトであった。しかし2019年を最後にこの曲はコンサートで演奏されなくなっている。

本作はキース・リチャーズのギター・リフを中心に構成されているが、アコースティック・ギターやマラカスも鳴り響き、全体としてあまりエレキ色は強くない。むしろカリブ海のリゾートを思わせるなごやかな雰囲気さえ漂っている。しかし、その歌詞に耳を傾けるとまったく違う世界が見えてくるだろう。その冒頭はおおよそ以下のような内容だ。

"船長は船に奴隷を詰め込んで 大海原に乗り出した"

K-POPやJ-POPが童謡に聴こえるほどだ。この「Brown Sugar」は奴隷貿易の時代とそこで行われていた人種的・性的な虐待行為をテーマとした作品なのだ。

ドコドコとした抜けの悪いドラムと大きくバウンスするギターが織りなすグルーヴは波乱に満ちた冒険の讃歌であり、間違いなく新しいストーンズサウンドの幕開けであった。夜な夜な奴隷を鞭で打ち、酒盛りに興じる英国紳士や女主人が唄われる一方、鳴り響くサックスが大陸への到着を告げる。宴はしだいに狂気を帯び、"Yeah, Yeah , Yeah, Oooh"の雄叫びと共に夜は更けてゆく。聴き終わる頃には、この曲の中に正義が存在しないことに気がつくだろう。

それにしても素晴らしい。
良識に囚われなければ人間はこれほどまでに見事な芸術的手腕を発揮するものなのだろうか。近世から近代に至るまでのダイナミックな時代の変容の中に生きる、名もなき人々の悲哀と高揚の日常があざやかなまでに切り取られている。たしかに差別的で暴力的だ。「Brown Sugar」を非難する声は、以前からネット上でよく散見され、中国など一部の国では演奏を禁じられもした。だが、現実にこれと同じ、あるいはこれ以上の暴虐が何百年も行われてきたのは疑いようもない事実である。この曲を非難する人たちは、そんな時代はなかったとでも言うのだろうか?

「Brown Sugar」が凄まじいまでのリアリティを持って迫ってくるのは、ここで表現されている時代の延長に我々が生きていると言う事実ゆえだ。奴隷船の船長は自分が悪いことをしているとは思っていなかった。少なくとも当時の宗教的概念では非難されることではなかった。労働力の不足を補い、世界を豊かにするビジネスだと思っていたかもしれない。しかし、その後さまざまな奇跡や途方もない努力を経て人類は過去の残虐を否定できる倫理観を勝ち得ることができた。ニューヨークやロンドンやハバナのスタジアムで「Brown Sugar」が鳴り響くとき、かつての奴隷と奴隷主の子孫たちは、共に残酷な歴史の果てに、ここにたどり着いたのだと認識するのだろう。
一方で「Brown Sugar」は今の正義が必ずしも未来永劫ではないことも主張している。事実、日本における非正規雇用や多重請負構造の問題は人道問題として認識すらされていない。我々を鞭打つ船長は決していなくならないのだ。

だが、「Brown Sugar」が演奏されなくなったのはなぜなのだろう。先述のようにこの曲を批判する声は以前からあったが、必ずしも大きな抗議運動があったわけではない。

それは昨今の世界情勢の中で、この曲が芸術表現として許容される寛容さが失われつつあることを意味しているのではないだろうか。グローバリズムの反動によって、排他主義が先鋭化し、民族間の紛争が激化しているいま「Brown Sugar」を行きすぎたジョークで済ませるのは難しい。
また、彼らは作者の意図を外れ、差別や分断を助長する目的で楽曲が使われることを懸念したのかもしれない。事実、ローリング・ストーンズの楽曲は米国の選挙集会で無断使用され、彼らはそれを差し止めることができなかった。およそ戦争のような桁外れの残虐は、貧富の差がひらき、不満が募り、分断を煽る人間と集団心理に後押しされて発生する。そのような流れに加担する可能性を少しでも減らしたかったはずだ。

率直に言って私はもう一度「Brown Sugar」が演奏されるところを観たい。しかし、それは平和だった日々への憧れなのだろう。当たり前のことではあるが、少し過激なバカ騒ぎは、安定した平和な世界においてのみ許される。それはすでに遠い昔になってしまった。そして残念ではあるが、我々が生きているうちには戻ることのない世界なのだろう。




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