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「Bitches Brew」 マイルス・デイヴィス

ジャズの帝王マイルス・デイヴィスは、ロック音楽の興隆によってジャズが急速にマイナー化してゆく60年代末期、エレキ楽器とアフロ・ビートそしてフリー・ジャズを融合させたような未曾有の音楽絵巻を完成させた。それがこの1970年にリリースされた「Bitches Brew」だ。この2枚組アルバムによって、エレクトリック・マイルスの時代が幕を開け、伝統的なジャズがポピュラー音楽としての役割を終えたと言われている。
2人のドラムにパーカッションまで加わった打楽器陣は野蛮で複雑なリズムを叩き、ホーンやギターは単調で断片的なフレーズを執拗に繰り返す。バンドの要であるベースですら、思いつきのままにラインを崩し、曲の構成すらもよく分からない。はっきりとしたソロパートもなく、まるで自然現象のようにいつの間にか盛り上がってはいつの間にか終わってゆく。マイルスをはじめウェイン・ショーターやジョー・ザヴィヌルなど、後のジャズ・フュージョンを支える総勢10名以上の天才たちによって作り上げられた作品は、ジャズでもロックでもない異様なサウンドの塊だった。
発表から50年以上経過した今もこの作品に対する評価は賛否両論であり、世紀の傑作という人もいれば、壮大なだけで何も始まらないという人もいる。だが徹底して左脳的な理解を拒む音の魔境は、2020年代の現代においてもなお圧倒的な迫力を持って聴く者に迫ってくる。

1曲目の「Pharaoh's Dance」では冒頭にテーマらしいフレーズがいくつか提示される。だが、そのフレーズは入り乱れるリズムと不協和音の中で、切り刻まれては混ぜ合わされ、原型を留めず変化してゆく。もはや現生に我々を引き留めるものはなく、このトランス状態に身を委ねれば幽体離脱はできなくとも、人間であることは放棄しても良さそうだ。終盤ではマイルスのトランペットが、切り裂かれたこの世界が結局何であったのかを語ろうとするのだが、その独白は唐突に終わってしまう。なぜならばこれは次曲のカタストロフィーの序曲ににすぎないからだ。

このアルバムのハイライトであるタイトル曲の「Bitches Brew」は、26分にも及ぶ大作であり、たった2つのパートで構成されている。まず「ツー・ツー・ツー・ガシャーン」と砕け散るような音を背景にマイルスが絶叫的にブロウするパートで始まる。もはや音楽と言って良いのかすら疑問があるが、このアルバムの中でもひときわ鮮烈なシーンだ。もうひとつのパートでは、マリオの地下ステージのように単調でダークなフレーズに導かれ、全てのプレイヤーが阿鼻叫喚を訴える地獄絵図だ。マイルスのトランペットは血みどろの恐竜のように叫び、渾然一体となったリズム隊は裂けて脈打つ大地のようだ。ピーチ姫の救出は絶望的だろう。この2つのパートをいくたびか繰り返してこの曲は幕を閉じるのだが、もはや人間社会の何かを表すと言うより、原始生命の胎動を表したかのような圧倒的な世界感をもって迫ってくる。

そしてこれまでの錯乱した音像が集まって、大河のように大きなうねりを作るのが「Spanish Key」だ。ドラムやベースが一定のパターンを維持していることが"音楽"としてのまとまりを感じさせるのだろう。アルバム全体に漂うカオス感を持ちつつもバンドが一体となってスイングするこの曲は、聴く者にみなぎるパワーを与えてくれる。ジョン・マクラフリンやウェイン・ショーターも安定したリズムを背景にのびのびとした演奏を聞かせる。特にショーターのソロは長尺だが、情欲的なリズムを背景に刻々と表情を変え、全く長さを感じさせない。

「John McLaughlin」はタイトルの通りギタリストのジョン・マクラフリンがフューチャーされた小曲だが、それ以上にマイルスが登場しないことが特徴的な曲だ。それゆえだろうか、シンバルの響き方などに昔ながらのジャズの残り香があり、オーネット・コールマンのような雰囲気も感じられる。

「Miles Runs the Voodoo Down」はその間抜けな雰囲気にはなかなか共感しにくいものがあるが、後の「On The Corner」のような雑踏感を楽しむべきなのだろう。 少なくともこの大仕掛けなアルバムの中で最も人間臭さを感じられる曲だ。

そして終曲ではないが「Sanctuary」を聴くと、長い旅に終わりが近づいたことが感じられ、達成感がありながらも寂しい思いがひとしおでもある。この曲が終わる前に部屋を出たいと思うのは私だけだろうか。

この「Bitches Brew」は前述の通り、リリース当初からさまざまな議論を巻き起こした問題作である。無条件にこの作品を賛美する人もいるが、高額な2枚組であるがゆえに、なんとか価格相応の価値を見出したいと言う思いもあるのだろう。だかこの作品の魅力はある程度の時間、集中して聴かなければ見出しにくいものであり、令和のこの時代のそれだけの時間が確保できるかというと、かなり難しいというのが実情ではないだろうか。現在は多くのサブスクサービスで、安価にかつ超高音質で本作を楽しむことができる。時間のある時にじっくり聞き込むのが本作の正しい楽しみ方だろう。

本作の凄まじさは、もちろんマイルスの才能のなせる技なのだろうが、これほど実験的な作品を莫大なコストをかけて制作することを許してしまうリリース元のコロムビアという企業もまた賞賛されるべきだろう。
コロムビアは50年代中期にマイルスをはじめとする大物ジャズマンと次々に専属契約を結んだが、1970年頃にはその戦略の軸足をポップス・ロックに移していた。特にクレイヴ・デイヴィスが社長になってからこの傾向は強まっていったようだ。これを商業主義と批判する意見もあるだろうが、新しい市場で安定した利益を確保できたからこそ、多様な芸術性を持つアーティストや音楽作品を世に送り出す余裕を持つことができたとも言える。もちろん、ジョージ・アヴァキンやテオ・マセオのようなジャズ黄金時代を支えたエンジニア/プロデューサの影響力もあったろう。だが、ビジネス体として稼ぐ力と芸術の守護者としての使命感を併せ持った企業文化こそが、「Bitches Brew」のようなモンスター作品を生み出した原動力だったのは間違いない。

同じようなバンド、同じような楽曲ばかりが生み出されるのは、企業や聴衆が多様性を許容する余力を失ってしまっていることが原因だ。マイルス信者には理解されないだろうが、マイルスのようなアイデアや力量を持ったアーティストはいつの時代にもある程度は存在していたと考えるのが自然だ。だが重要なのは、そういった才能に役割と表現の場を与え、偉業として形を成すことを後押しする社会基盤があったか否かということだ。

昨今、2000年代初頭にP2P技術を確立したWinnyの作成者が逮捕され、若くして亡くなられたことが日本のIT化を遅らせた、との意見をよく目にする。それはもちろん真実なのだが、彼のような才能を受け入れ、ビジネスとして開花させる社会的な寛容さとバイタリティがなければ、結局は米国のようなIT大国となることは難しかっただろう。まったく異なる時代と業界の話ではあるが、ジャズにおいてもロックにおいてもあまりにも異端であった「Bitches Brew」を久しぶりに聴いて、そんなことに思いを馳せてしまった。


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