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豊浦宮皇居跡と忌宮神社

山口県の長府城下町の探索続きです

新羅討伐の途中で仲哀天皇、神功皇后が7年滞在された仮の皇居跡
秦の始皇帝11世、功満王(こまおう)が来朝帰化し豊浦宮で仲哀天皇に蚕の卵を献上したとされている
蚕種渡来の碑
集童場場長室
長府の松下村塾とも言われた集童場では百数十人もの門下生を集めるようになっていた
乃木希典らによって建てられ
山縣有朋、金子豪介の名も
熊野則之君記念の碑
忌宮神社御拝殿
拝殿の中も年月を感じる
由緒書
八坂神社
御祭神
天狗面
石鬼
数方庭…新羅国の塵輪が熊襲を扇動し豊浦宮に攻めてきた際、
守護人を討ち殺された天皇は自ら弓を持って塵輪を射倒された
それに喜んだ皇軍が屍の周りを囲み踊り回ったとされている
石鬼…撃たれた塵輪の首を埋めて覆った石の事
(塵輪の風貌が赤鬼の様だった為)
竹内宿禰の銀杏
さかまつの由緒書
当時の古木と若木が残っています
京都の伏見稲荷大社から分霊を勧請したとされている
荒熊稲荷神社

忌宮神社…三韓征伐の途中で、なぜこの長府に7年も滞在する事になったのか?
それに、わざわざ新羅国から塵輪なる者がこちらに飛び込んできている。
本当に、新羅国は大陸の朝鮮半島にあって、征伐する目的で西へ向かっていたのか?
仲哀天皇は、この争いが元で亡くなることになるが…
神功皇后の三韓征伐は、山陰地方、九州地方で多く伝説が残されているが、本当の目的になかなか辿りつかない。

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