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2304XX

 朝の光と台所の炊事の音で目を覚ました。寝返りをうって、夢を見ていたことを思い出していた。誰かとともに博物館観光のため西洋風の建物の並ぶ地方都市を歩いていた。誰かとは、肉付きの良い背の低い女だった。俺と女は親密ではあるものの関係は冷めており、女の意識が俺に向くことは少なく俺は寂しく不安に思っていた。貴方はコミュニケーションを放棄している、と真剣な表情で訴えた彼女にヘラヘラとした表情で応えたことが関係を悪くした原因であることは分かっていた。
 旅先で旧友であるキダケントと偶然会い、言葉を交わしている最中に女と逸れた。女は意識的に俺を撒いたのかは分からないが、その後に連絡をよこすことはなかった。俺はキダの嫌そうな顔に見ない振りして、キダの車に同乗した。キダはスタイルが良く甘い顔をしていた。そして、高校時代に俺を面白いと評価した人物の1人だった。俺はキダを含めた7人組で、学園祭で演劇の出し物を行ったことがあった。その中で、俺は指揮をとる舞台監督を務めたが、当日を間近にしスケジュールや脚本に致命的な穴が見つかった。本番は、学年担当教師が映像として納めるべく構えた新品のビデオカメラを思わず閉じてしまうくらいの失敗に終わった。夢の中のキダは、俺に侮蔑と同情の表情を浮かべていた。徐々に日は暮れ、車は霧の深い道や顔のない人形が吊るされていた森に入っていった。人形は全て古い遊具のように褪せてはいるもののカラフルで、力無く四肢をぶら下げていた。人形に顔はなく前後すら判断できなかったが、どの人形も俺を避けるようにあさっての方向を向いているような気がした。
 俺はその不気味な山道を走る車内で、次の行き先の選択に迫られていた。キダには宿があり、寝床まで面倒を見てやる義理はないという目をしていたからだ。俺は最善手を考えるために携帯電話を見ていた。ノゾミという女の連絡先が目についた。ノゾミの連絡先を意識して以来、何故か現在地を俺は千葉県内だと思っていた。ノゾミは3月末に連絡を取り始めた同い年の女だ。警戒心が強く涼しい顔をして嘘をつくが、俺はそういう部分を自分と似ていると思った。芯は通っているものの気分屋でエキセントリック、話始めた当初より意図的に男の影を匂わせることをした。痛々しさも含めて透けて見えるようだったが、俺は目を離すことが出来なかった。どこかも分からぬ山中で彼女に助けを求めるべきか迷いながら、夢から覚めた。夢の中での出来事を掻い摘んで、助けてくれていたかをノゾミにラインで尋ねた。片側しか掛かっていないカーテンでは日差しは防げず、2度寝は出来なかった。

 仕事を辞めてバービィの家での生活を始め、もうすぐ1ヶ月が経とうとしていた。バービィとは父方の祖母の愛称だ。
 階段を降りると、バービィがヨタヨタと廊下を横切った。階段の板が軋む大きな音はバービィの耳には届いておらず、父だけがおはようと挨拶してきた。バチバチと何かを炒める音が聞こえる。父のいる日曜の朝は鼻を刺すような猫の尿臭に、タバコの匂いが混じる。バービィの飼い猫を探している声が聞こえる。父が立ち去ろうとする俺を呼び止める。2枚のトースト、2つ落とされた目玉焼き、ゆで卵、キャベツ、ハム、マヨネーズボトル、チューブバター、水の入ったグラス、ストレートティーの入った3つのカップの乗った溢れんばかりのトレイを指差して運んでくれと言った。バービィはテーブルに食器を並べる俺を見つけるなり、アンタがおるから逃げるんやわ、とカラカラ笑っている。皿を並べ終え台所の様子を眺めていると、オカン、牛乳は?、と父が濁った声で叫んだ。バービィはとぼとぼと、父ではなく俺の方へ歩み寄り小首を傾げた。俺が、俺じゃないよという前に、父は紅茶の茶葉の入ったブリキの缶でバービィの頭を小突いていた。
「なんでわからんねん」
「ああ、ごめん」背中が小さく見える。
「もうええわ、マサ、オカンにクスリって言うたってくれ」そう言われそのまま俺は、クスリは?とバービィに言った。そうやそうや、とバービィは戸棚へ歩き、一包化された薬を取り出しに行った。

 バービィは、父にゆで卵の黄身が半熟であることを嬉しそうに指をさして報告している。
「これな恒例やねん」と父は満足げで、俺に補足するように言った。「白身は固めにして、黄身は半熟、これがオカンは好きやねん」
「ようできてるわ、これ」バービィは満足げで俺にもその断面を見せてきた。
「ほんで牛乳は?」思い出したように父はバービィに聞く。
「ああ、もう腐ってたからホカしたんやったかな、普段飲めへんもん」
「嘘をつくな」今度は拳で擦るようにバービィの頭を小突いた。「牛乳はな、俺とお姉でちゃんと管理してんねん、嘘ばっか吐くな」怒りというより嘆きに近い。
「捨てた記憶もあんねんけどなあ」被せて言う。
「聞こえてるか、クソババア」バービィの表情を見つめているとニッコリと作った笑顔を俺に向けてきた。聞こえていてもまるで聞こえていないかのように振る舞うことがある。俺にはそのどちらか判断出来なかった。父も出来ていないようだった。一拍置いて、父は声色を変え俺に話しかける。
「マサ、MCTオイルって知っとうか?」首を振って答える。「なんかな、肥え過ぎにもええし、難聴にもええし、記憶力も良うなるらしいねん、ウチにピッタリやろ、買おかな思てんねん」笑いながら言った。上を向いて肩を揺らす笑い方、見覚えのある笑い方だ。職場の同僚や取引先との電話でよくこの笑い方をしていた。何も面白いことなどない、事務的な笑い。父は皮肉めいたことを言う時にもこの笑い方をする。ふーん、とだけ反応し、返答を保留した。否定するのも肯定するのも気が引けた。会話はやはりバービィには届いていないようで、ベタベタにイチゴジャムを塗ったトーストを無心に頬張っている。これ知ってるか、とさらに父は携帯の液晶に動画を表示し俺に示した。認知症、○○しない人はなりやすい、とデカデカと文字が打たれた動画のサムネイルだった。一説によると嫌な記憶を封印するために認知症になることもあるといわれている、だから予防のためには副交感神経を刺激する、リラックスを促すために身体を撫でるといい、と画面の中の専門家らしき壮年男性が話した。顔を上げると父の合図に合わせ、バービィが自分で自分の両腕を撫で始めていた。自分でも効果あるらしいんやけどな、時間ある時に撫でたってくれ。
 俺は自分の食器を片し自室に帰った。 ノゾミからの返信はない。

 再就職までの短い休暇は終わりが近く、体力を持て余しながら憂鬱だった。急性アルコール中毒で救急搬送された青年とホストに入れ込んだ女の2つのアイデアと、その書きかけを抱えていながら、俺はどこまでも無気力だった。止まった心臓を動かすような刺激が俺には必要だった。
 俺はノゾミの他にヒナ、チヒロ、ナオの3人の女と連絡を取り合っていた。刺激を求めた末の体たらくだった。いずれもネットで知り合った女だった。
 ケーキ屋で働くヒナは、甘え上手で自分の見せ方が上手だったが、幼児性の抜けていない部分がありマゾヒストだった。冷め切った関係の恋人がいたが別れ、それを俺に報告してきたことがあった。情動の操縦桿が折れたかのように涙を流したが、時折俺の顔色を窺うように沈黙を挟んだ。自分の首に結ばれた手綱を引く飼い主を見定めているように見えた。
 チヒロはコンカフェでバイトする栄養学生だった。優しく底抜けに明るいが、必ずと言っていいほど吐くまで酒を飲み続けリボ払いにも手を出すほど金にもルーズだった。後ろめたい何かをずっと抱え込んでおり、それが何かは結局のところ知らされることは今日までなかった。もし私が人を殺したことがあると言っても責めない?、と聞いてきたこともある。俺はそれが何かがずっと心に引っかかっている。
 ナオは場末の酒場に常駐する三十路の笑い上戸で、嘆きのマートルのような喉をしていた。ナオとは会ったことがあった。目鼻立ちのはっきりした綺麗な顔立ちをしていたが、アルコールが入ると顔中の毛細血管が開き、鼻先から真っ赤に染まった。表情をコロコロと変えるなか、俺にはどの顔が本当の顔か分からなかったが、家へ帰ることを忘れているように飲み干されていくジョッキが彼女の象徴のようだ、と思い見つめていたことを覚えている。
 いずれの関係も熱が籠りはじめるとスクリーンに映るドラマのように、他人事として見えるようになった。それはノゾミも例外ではなかった。コメディ、ハートフル、ラブロマンス、ミステリー、演者の1人であるはずなのに意識はどこかで乖離しており、刺激を求めた好奇心はさらに渇いていた。セックスに有り付きたいというモチベーションならば、いくらか形になっていたかもしれない。俺はセックスで射精できないことが多く、それをこの女達に曝け出す度胸を持ち合わせていなかった。
 自室のベッドに横たわりながらツイッターのタイムラインをボーッと眺めているとノゾミから返信が来た。
「助けるよ、でもわたし運転できないからタクろ」
 ありがとう、おかげで助かるよ、と返すと写真が送られてきた。今日のデートの服どう?、とメッセージが添えられていた。可愛いよ、よく似合ってる、と5分あけて返信した。ガシャンという大きな音が階下から聞こえた。

「ヤスクラ自身が分かってないこと、俺らには分かるはずないやん」セノオはシリアスと呆れた笑いの混じった声で言った。俺は突き出しのナッツから目を動かさず、かと言って声を出すこともしなかった。セノオは大きく肩で呼吸して見せた。タケオカとセノオは目を合わせ、もう一度俺を注視した。
 三ノ宮の街の山側のビルの一角に、そのバーはあった。bar showという名前だった。セノオの同僚がここにセノオを案内し、その後もう1度タケオカとセノオはここにきたことがあった。安い居酒屋で食事をとったあとの2軒目としてタケオカがこの店の提案をした。
 居酒屋ではセノオの身の上話が主なトピックだった。セノオは手に職をつけてコツコツと働いていたが、親元を離れられずにいた。未だに門限があり自分の通帳を持っておらず、給料は親の持つ口座に振り込まれており、姉の奨学金の返済や生活費に充てられていると話した。どれだけのことがあってもセノオ自身が独り立ちしようとしないあいだは正確には、親元を離れずにいると言うべきかもしれない。
 セノオが話している時、俺はタケオカに向かって、俺らは何もないもんな、と言った。自分の口から出た言葉ながら意味は漠然としており、言葉とした瞬間にその意味合いはより曖昧になった。アルコール臭い呼気に混ざり込みさらに掴みどころを失い、気体は匂いだけを残して次第に姿を消した。
 何もない、何も、何も、何も。意味を追ううち、俺は本当に空っぽになったような気になった。
 自虐的に笑い口元を歪めたつもりだったが、タケオカには挑戦的な笑みに見えたようだ。タケオカはグリーンカードの取得面接を終え、数ヶ月後に渡米を決めていた。父親と母親の夫婦仲は壊滅的で、姉は病気で療養しており、飼っている犬は衰弱し24時間体制の介護が必要な状態だった中での渡米だった。タケオカは怒ることをせず、また始まったと言わんばかりに短く息を吐き、ないって何がないん、と聞き返した。分からない、その人を形成する何か、と答えた。
 匂いだけを残したその言葉の中で、それが俺の分かっている全てで、それは本当のことだった。しかし自分に準えて答えることはしなかった。促されてもしなかっただろう。お前を形作る何か、お前の今後の航路を舵取りする何か。
 俺は後悔しないように生きているんだ、棺桶に入る時にあの時に、と考えたくないんだ、とタケオカは言った。これであってるのか、とセノオが俺に向かって言った。違うような気がする、分からない。
 bar showは落ち着いたバーだった。所在なさげにカウンターに立っている2人の女の子を除けば、統一感のある整頓された店だった。マスターのショウという男は店の奥のテーブルから顔を出してセノオとタケオカを見て顔を少し明るくし、いらっしゃいと言った。 背を高くなかったが肉付きが良く、黒のスーツに銀の装飾品を付けていた。髪は整髪料でキープしており、髪のかかった目はギラギラとしている。群れの中で序列を常に意識しながら生きてきた獣じみていると思った。
 3人で話しやすいようにと、カウンターのL字に案内を受けた。ショウは小指をぶつけて生爪が剥がれた話を笑いながらし、ドリンクのオーダー取った。目尻に皺を作るように目を窄め、口の中を見せ、肩を小刻みに振るわせるように笑った。目の奥はこちらを伺っていることは一目瞭然であった。タケオカがうわあ痛そうですね、と心配そうな顔を作り言った。格闘技やってたから爪剥がれるとか結構あってん、でも痛いでしょう、と言い合っている。口角を歪ませるように女のバーテンダーが下手くそな愛想笑いをしている。ショウは突き出しのナッツを目の前に置いたあとカウンターの中央へ歩き、シェイカーでドリンクを作り始めた。滑らかな手つきだった。
 釈然としない様子を臆面もなく垂れ流す俺を見て言ったその時の言葉だった。ヤスクラ自身が分かってないこと、俺らには分かるはずないやん。
 ショウにタケオカは俺の主張を話した。ヤスクラは俺に何もないと言った、何もというのが何かは分からない、その人間を形成付けるアイデンティティのようなものらしい、タケオカはタケオカのペースでタケオカの言葉を使って話した。
「難しいこと言うね、アイデンティティってなに?」ショウは手元の携帯電話で、アイデンティティ、と検索をかけようとした。
「個性」女のバーテンダーの1人が自信無さげにボソッと言う。
「ヒロアカみたいやな、個性」大それた響きをショウは鼻で笑うようにした。
「いや、むしろオリジンかもしれない」俺が言った。ショウは今度は笑わなかった。オリジンという言葉を反芻してみた。霧が少しずつ濃くなり形をなし、目を細めると見えるような、しっくり来るような気がした。
「だからそれは後悔したくないっていうのと何が違うねん」タケオカの問いに答えたのはショウだった。
「強い負の経験のことを言いたいんじゃないかな、人を動かすのは負の経験や、こんな思いもうしたくないっていう」ショウはアイコスを取り出して深く吸い込んだ煙を上を向けて吐き出した。少し青い煙は天井に届く前に解けて消えた。何もない、何もない、呪文のように唱えてきた言葉の本当の意味を思い出せそうな気がした。「俺は兄と末っ子長女に挟まれた次男やってな、手のかからん子やと言われて育ってきてん、手のかからんように振る舞ってきただけやのにな、自分を見て欲しかったんやろなあ、今ではこうやって俺自身を売るように自営業してる、見てくれ、俺のことを見てくれって言うようなもんかもな、他の2人はちゃんと名のある企業に勤めてんねんで」タケオカとセノオは顔をこちらに向けた。これで合ってたんか、と言葉にしたのはタケオカの方だった。
 何もない。痛みもない。あったはずの傷が何も見つけられない、というのが俺の頭に響く声の全てだった。俺の臓器は黒い霧に覆われ重い。あったはずの痛みも傷も真っ黒に塗りつぶされている。俺は未だに俺のことなど何も分かりはせず、俺は俺のことを何も伝えることが出来ないでいる。何も理解せずとも、何も伝えなかったとしても生きていくことは出来る。実際に俺はそこから目を逸らして生きてきた。
「これで合ってたんか」タケオカの言葉に俺はコクリと頷いた。本当は何もないことなんてない、というショウの言葉を掻き消すようにタケオカは、やはり俺は母親やおばあちゃんの姿を見て後悔しないように生きている、映画に影響されて物事を選択してきて今があるのかもしれない、と語った。セノオは、アニメかもしれん、次元大介が好きだったからZippoを買い集めるようになったし、と応えるように返した。何杯目かの酒に俺の思考は止まり、カウンターに突っ伏した。俺はタケオカがアメリカという国を語っていた時のことを思い出していた。戦場から帰った米兵はトラウマを抱えるようになるらしい、それが本当かどうか身をもって知りたいんだと言っていたことを。
 これでええか、というタケオカの言葉に、よく分からないまま頷いた。大丈夫か、というセノオの言葉に、大丈夫、コイツはそんなことで本気で悩んでない、とタケオカが答えた。

 強い風が大粒の雨を窓に打ち付けている。枕元にあった短編小説を開いている。何度も読んだことがある短編だった。主人公のガールフレンドが自画像を描き、その目の奥に恥の色を見る話だった。パラパラと捲ると最終ページに、京都旅行の朝食の中華粥のレシートが挟んであった。別のページには京都で生活していたときのドトールのレシートが挟んである。強烈な何かの思い出がこの短編集には紐付いていたはずなのに、思い出だけがすっぽりと記憶から抜け落ちていた。中華粥を食べていた時には思い出せていた。
「雨強いね。」電話の向こうでノゾミが言った。
「そうだね。」
「日曜日、バラ見に行く予定なんだよ。」
「男?」と訊くと半秒の間を作った。「男か。」
「まだなんも言ってないじゃん。」
「いつものことやから。」
「気にする?」
「ううん、いつものことやから。」
 ビニルの雨水管が音を立てているのが聞こえる。雨の音がよく聞こえるようにと少しだけ窓を開けていたからだ。土とカビの匂いがする。古く埃っぽいカーテンがはためいている。女がベトナムからの帰還米兵を引き合いに主人公に潔白を証明しようとしているシーン、雨粒が一滴だけ短編のページの上に落ちて、我に帰った。
「ノゾミ?」受話器の向こうでは、軒から雨が落ちるような音が大きく聞こえる。
「ん、なに」間延びするような甘い声だった。
「ごめん、起こしたか。」
「ううん、起きてたよ、妄想してた。マサくんの妄想。」
「夢見てたってこと?」
「マサくんさ、仕事の日以外は私と結構話してくれてるじゃない?こうさ、1人でしたくなったりとか、しない?私邪魔したり、してない?」
「どういうこと?」
「ほら、そういう気分になったりしないのかってこと。」
「内緒」ノゾミは沈黙している。本音の見返りは本音以外にはあり得ない、意味を持った沈黙に気圧され、続けた。「ないよ、大丈夫」あるよ、こんな魅力的な女性と話しているのだから、と答えるべきだったと直後反省した。
 横殴りの雨は窓を打ち続けていた。窓を閉めると部屋の中は一瞬静まり返り、受話器の向こうのびちゃびちゃという雨垂れの音が大きく聞こえた。しばらくして起きているか確認し、返答があり思わず謝った。
「マサくんならいつ話しかけてくれてもいいよ」と甘く濡れた声だった。勃ったが欲情が煽られるまでにはなれなかった。なぜか胸が締め付けられた。
 短編集のガールフレンドは自画像の瞳の中の恥の色を指摘され、激昂しながら浮気したことを告白した。アンタが、アンタが、と荒げた声が聞こえるような気がした。
 やがて、電話は歯軋りの音を鳴らした。今度は声をかけても返答はなかった。無くしてしまった思い出のことを考えた。ギィギィという歯軋りの音を聞きながら、俺は目を瞑った。

 てっぺんまで上ろうとしている陽の光がカーテンの隙間から俺の目を刺した。階下ではバービィが昼食を摂っていた。
「おはよう。」
「アンタが降りて来たから、えらいもんで白いも黒いも逃げよったわ。」口を大きく開いて笑った。生え揃った並びの良い歯は白い。つぶらな目は、笑うと節の目そっくりに細くなる。ボリュームのあった髪は、ロングコートのマルチーズのようにみえる。
「可哀想にな。」俺の声はバービィの耳には届かずその場で霧散した。吐気があり、脂臭い胃液が上ってくるのが分かった。徒労が喉を少しだけ焼いた。
「なんか言うた?耳付けてへんねん。」
 小ぶりの鍋でソーセージを茹で、長方形のフライパンの上に卵を落とした。ジュウと音を立てながら白身に色が付いてゆく。沸々と気泡を作りはじめた。その様子を眺めていた。
 鍵束の擦れる音に次いで玄関扉が開く音がした。小さな風がキッチンをすり抜けた。バービィが音に駆け寄っていく。
「上がっていきなさいよ。」
「嫌や、だってアイツおるんやろ。」伯母の声だった。伯母とは確執があり、声を聞いたのも数年ぶりだった。昨日の喧嘩を引きずる小学生のように険のある物言いだった。おるで、と大きな声で叫んだ。返答なく、ごにょごにょとバービィに何かを伝えている。やはり険のある声だ。身内の狭量に直面し情けなさを感じた。バービィが、冷蔵庫に何もないねん、食べに連れてってえよ、と声を上げる中で、扉の閉まる音が聞こえた。もう、とバービィが言う。
「何で帰ったんやろうなあ。」玄関からヨタヨタと歩くバービィに、白々しくも俺が言った。伯母がバービィに、アイツ嫌いやねん、邪魔やし、と個人的に連絡していたことを知っていた。
「アンタがおるからやろ。」
「俺が何したって言うん、カッとなって吹っかけて来てさ、大体いい年して縄張り意識持ってさ、親離れが出来てないんちゃう。」
「あの子はええねん、働いてるから。アンタも働き。」
「じゃあこの辺で仕事見つけて、ここ居着いたろか。」意地悪で皮肉たっぷりな物言いだと自分でも思った。
「そらあかんわ、あの子上がってこられへんやん。」困った様子もなく平然と答えた。
「何で俺のこと嫌なん。」
「知らん。そもそもアンタがこの家出たらええねん。」
「俺は次の就職は遠くでするって決めてんねん、思い出のために働かずにここに1ヶ月おったけどな、早よ出ていってほしいならサッサ出ていくわ、ここ出たらもうしばらく帰るつもりないから、次会う時は病院か施設かもしれんな。」言わなくていいことを言ってしまったと思った。5月中頃の内定が遠方で決まっていた。勢い良く啖呵を切ったものの、今すぐに家を飛び出すつもりは毛頭なく、ただ単純に僅かな時間を俺と穏やかに過ごして欲しい気持ちだけで、それは変わらなかった。バツが悪くなり2階への階段を登り、自室に座り込んだ。溜め息を吐く間に階段をゆっくり上る音が聞こえた。バービィが追いかけてきた。
「出ていって欲しいなんて言ってないねんで」顔をクシャクシャにしながら言った。両手の拳を握りしめて言葉を振り絞るような物言いだった。しかし、深い皺のような目から涙が落ちることはなく、声も振るわせているだけで嗚咽などはなかった。泣かせてしまったという怯みは嘘泣きだと分かった瞬間にスッと消えたが、嘘泣きだと分かった後も、こんな風にショックを与えてしまったことに負い目を感じ続けた。これな、とバービィは嘘泣きのまま切り出した。スラックスのポケットから、3万円を取り出した。食費として俺が住みつき始めた時に手渡した3万円だった。まとわりつく手を振り払うように家を出た。扉を閉じる瞬間の表情はくしゃくしゃに顰めた泣き顔ではなく、板挟みにあっただけの寂しげな老婆だった。行くあてもなくカブのエンジンをかけた。喉の鼻奥が締まりポロポロと涙が出た。俺はなぜ涙を流しているのか分からず、途方に暮れた。やがて俺は自分の傷のことを考えた。
 何かを見る目が良くなければ何に怒りを向けるべきか分からない、自分の心の声を聞くことを怠れば何に悲しんでいるのかも分からなくなる。何かにつけてサボりがちな俺たちはこれから自らの傷を見つけていくのかもしれない。

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