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緩やかな去勢 虫の叫声

 愛液は、熱帯夜の汗のように中指に重たく纏わり付いた。煙草、煙草、と喘いでいた千秋は指を抜いた途端に私の腕を跳ねのけ、ローテーブルに肘をついてペタンと座り込んだ。スマートフォンを手に取り、電子タバコに口をつけて深く吸い込む。その光が少しだけ眩しく目を細める。指に付着した分泌物でシーツを汚さないようにしなくてはと、濡れていたはずの指を親指の腹で撫でて確認する。既に乾いていた。臭いはない。ウネウネと蠕動する膣の感触だけを指が記憶している。自分のものが萎えていくのが分かる。カーテンの隙間からわずかに届く光が黒いジャージを纏った彼女の背を朧げながら照らしている。丸まった広い背中は周期的に深く呼吸し、時々咳き込んだ。
「教室の子が同じ咳するんだよね。」電子タバコ特有の人工的な清涼感の臭いが枕元まで届き、吐き気と共に胃液が胸を焼いた。酸っぱい臭いが口の中に広がる。彼女はやがて短い動画を次々と見始めた。安い音が聞こえる。彼女の背は笑い声と共に時々小刻みに揺れる。脊柱の窪みと広背の贅肉の作る起伏は、まるで閉じた昆虫の翅のようだった。背が小刻みに揺れるたびに後翅が飛び立つ準備をしているのだと思う。私は思い出した。私は都会を駆づる虫に成りたかった。

 つばの短いハットを被った中年が、だらしなく赤に染まった顔を少しだけ引き締めてダーツボードを睨んでいる。何か呟くように声を発しているが、環境音が大きく聞こえるため不明瞭だ。色の明るいジーンズの裾は何重かに捲られており、膝に当たる白く色落ちした布が脛のところまで降りている。持参したというダークパープルの矢がその赤ら顔の前で揺れている。2つ隣の2人組の女がその矢の行方を見守っているのが見える。矢の振り子運動とは別に自分の視界も揺れる。コルクの繊維を貫く短い音が響き、陽気な音が鳴る。下品な色使いの照明だと思う。
「ちゃんと見てたか?」意志の強そうな眉とその間の皺が目に付く。少し濁った目を得意気に輝かせる。
「見てましたよ。お見事でした。」
「違えよ、ちゃんと俺のこと見てたかって、後ろの女の子2人。」顔を顰めてそう言い、グルリと首から振り向いた。
「見てた?」
「オジサン、凄いじゃん。」女の1人が声を掛けられることを知っていたかのように言った。馬面と下膨れオカメ顔、そのオカメ顔の方だった。
「オジサンじゃねえよ、ノボルって言うの。ノボルくんかダーリンでも良いよ。」馬面が手のひらで口を隠してクスリと笑う。剥き出した血色の悪い歯茎が指の隙間から少しだけ見えた。
 その下膨れ顔が千秋だった。フレアスカートから太い足が覗き、ジージャンを羽織った肩幅は広かった。ベルベットのソファに背を預けて力なく目を開けていた私に一瞥して、何かを見透かすように口元で笑っていた。頭がズキズキと痛む。中年は片肘を膝について前傾姿勢のまま身振り手振りであることないことを話している。その話に馬面がお淑やかに笑うたびに、私の意識はその身より深く心に沈み込んだ。その場に居合わせているという実感が薄らいでゆく。頭上で暖かい色を灯した吊るしの裸電球が千秋の太い付け睫毛の陰をその頬まで伸ばしていた。家具の背後に隠れたゴキブリの脚のように見える。ウェイターはシワのないスーツに身を纏い、ダーツマシンは煌びやかな電飾でプレイヤーを待っている。中年と女の会話の声は雑多な音に溶けノイズと区別が付かなくなる。心臓がバクバク音を立てている。首の一切を後屈させその上に乗った眼球で、角度を変える睫毛の陰だけを眺めている。陰の輪郭は淡い。過剰で忙しない刺激に満ちた空間の中で、その陰だけは優しかった。その頬に触れたくなり身を起こした。胃袋が半液状に形を変えるのが分かる。ウェイターがテーブルにショットグラスを4つ並べた。中年がニヤニヤと私を見て笑っている。馬面は驚き、陰はザワザワと動いた。目は少し充血している。中年の発酵した汗と電子タバコの匂いが鼻につき、消化器官が痙攣する。目を瞑り胃液の逆流が収まるのをじっと待った。酸っぱい息を吐き胸を落ち着けていると、千秋がショットグラスの1つに嘔吐した。嘔気に耐える仕草に触発されたのかと、ほんの少し責任を感じる。小さく刻まれたネギとタコの切り身が滑る。溢れた吐瀉物が床にポツポツと垂れ始めた。手際よく片すウェイターを見ながら千秋は半笑いでいる。口元が汚れているのもまるで気にしていない。中年と馬面は布巾を受け取り、忙しなくテーブルと床を拭い始めた。呆気に取られている私を千秋はだらしない顔のまま眺めている。馬面が千秋のフレアスカートに落ちたネギを布巾でつまみあげて拭った。楕円の汚れが残る。中年は早々に4人分の会計を済ませて、夜風に当たろうと提案した。駅までの道のりでコンビニに立ち寄り、そこで中年は馬面を連れて私と千秋を撒いた。2Lの天然水を購入しビニル袋に入れてもらった。千秋は虚脱したまま笑い、ビールがいい、とだけ口にした。既に私の酔いは醒めていた。左手で顎を掴みそのまま喉元に水を流し込むと、咳き込みその大部分を吐き出して俯いた。肩を竦めて胸に手をやったので、急いでビニル袋を手渡した。先ほどの倍の量を吐き出したビニル袋を見て、金魚掬いみたい、と言う。ビニル袋の底には小さな穴が空いており、クリーム色の液体がアスファルトにビチャビチャと溢れ、千秋の靴を汚している。千秋は気にする様子もなく酸っぱい匂いの中で佇んでいる。今度は額目掛けて天然水を注いだ。

 お詫びがしたいと呼び出されたのは、千秋のバイト先のレストランだった。彼女はリネンのシャツに黒いエプロンを着けて俺を出迎え、淡路島で採れた玉葱のスープと対馬の猪のハンバーグをご馳走してくれた。獣臭さは薄いものの肉の味が強く、猪の味が色濃く残った調理がなされていた。その場で連絡先を交換し翌週には流行のホラー映画を、その次はワイン居酒屋へ、そしてセックスをした。彼女は調理師学校の学生だった。紅茶やコーヒー、ワインの飲み比べをする授業があると話した。違いは確かに分かるがどんな差があるのかについては忘れてしまったと言っていた。味覚にまつわる話をするとき、彼女は決まって例の何かを見透かすような笑顔を見せた。
 彼女は友人の少ない男を好んだ。ヨークシャーテリアの瞳を、専門店の食パンを、ルブタンのパンプスを、シャネルのナンバー5の香水を、ほうれん草と海苔と焼豚の乗ったラーメンを、そして広告ばかり表示するくだらないスマホゲームを愛した。嫌いなものはなく、どうでもいいものが多かった。
 彼女は次第に私の家に居つくようになった。缶チューハイやスナック菓子の常備を始めたのを皮切りに、下着やパーカー、電子タバコのストックも置いていくようになった。彼女は夕食を作ってくれることがあった。茄子の味噌煮、きんぴらごぼう、鰤の照り焼きなど和食が多かった。温かい食事にありつけるのも有り難く、日常的に誰かと卓を囲んだ食事をとる幸福、その好意も嬉しかった。しかし、何より彼女の料理は間違いなく美味しかった。
 美味しい料理は肉体と精神の繋がりを発見させる作用があることを知った。恋人と愛を囁き合うことや親友と理解し合い友情を深めることなど精神の喜びだけではなく、肉体と精神の双方向的な官能が確かにあった。今までの自堕落な生活で乖離した肥えた肉体と干からびた精神の間に、2本の螺旋状の血管が双方向に開口して血液が流れ込んだ、そんな感覚だった。また、美味しいということと食べ易いということの違いも知った。コンビニに並ぶ飲み下し易い食べ物と、美味しい食べ物の違いはやはり2重螺旋の血流の差だった。また、食べ物の美味を知ることで踏み越えられる線は極めて差別的な意味合いも含まれている。食べ易いだけのものにはその背徳は感じられないことも知った。
 彼女のいない夜、ふと電子タバコの匂いが鼻につき強烈な孤独感に苛まれることがあった。その孤独感は膿のような臭いで頭蓋骨の内側にべっとりと張り付く。やがて粘性の高い唾液とともに唇の裏側に溜まり私の唇や舌を操作する。私は彼女のささくれ立ったゴム質のような肌を撫でながら、可愛いよと言い切る。彼女の下唇を親指で捲ると白んだ筋だけが走っていて、撫でようとすると私の指を噛んだ。口角を上げてニヤリと笑う。膿の溜まった頭蓋骨を見透かされた思いになる。キリキリと顎の力を強める。噛み癖のある犬を躾けるように、もう片手の指を奥歯のさらに奥から喉元へ差し込む。口を開いても指を抜くことをせず、柔らかな組織をそのまま指で探った。むせ込み、甘い匂いの吐息が顔にかかる。私はこの袋から何かを取り出そうとがむしゃらになっていた。彼女はもう一度指を強く噛み、私は思わず指を抜いた。彼女が首をもたげたところで唇を重ねた。燻した風味に交じりわずかに鉄の味がした。自分の指を確認したが、サラサラとした唾液が歯形にわずかに溜まっているだけだった。
 その翌日、私は合鍵を手渡した。そのことをノボルさんにも話した。俺は同棲して2週間で妊娠したことあるから気を付けなよ、と言われた。

 まばらに雲の浮かぶ晴れた空は冷房の効いた車両にひっそりとした影を作っていた。影の行き交う府中駅はそれなりに栄えており、また駅中も原色を恐れず着こなすふくよかな中年女性や、異様に日に焼けた肌にシミひとつない真っ白なポロシャツを重ねたサファリハットの高齢男性、ヘソと肩を出して歩く若い女、白いタンクトップにハワイシャツを合わせた背の高い金髪の男などさまざまな人種が行き交っていた。千秋はその様子をさりげなく見渡して、あの人たちについていけば良さそうだね、と新聞を購入する私に耳打ちした。同じく片手に色の付いた新聞を持ち楽しげに話す若者4人組だった。私は千秋に同意して、競馬場までの道のりを歩き始めた。
「カタツムリの交尾って見たことある?」千秋はスマートフォンに目を落としながら口を開いた。強い陽射しに当てられて額に粒の大きな汗が浮かんでいる。
「昔見たかも、動画で。白いウネウネしたものを絡めるんじゃなかったっけ?」
「そうそう。」目を上げずに答える。汗の粒の中で細かな化粧下地の粉が泳いでいる。スノードームのようだと思う。
「恋矢って言うんだっけ?」
「よく知ってるね。」ようやく顔を上げた。「友達がね、いまその話してて、子供の頃家の近くでよく見たなあって思って。」
「今日みたいな湿度の高い晴れの日じゃなかった?」
「そうだったかも、気持ち悪くてさ、見入っちゃうんだよね。」
「人のも似たようなものじゃない?」
「ねえ。」私に抗議の目を向ける。「野田くんってさ、本当に良いセックスってしたことある?」
「うーん、分からない。」抗議の目に孕んだ幼さと不意の言葉に怯んだ。背を滑る汗の跡が一瞬だけ冷たく感じる。射精を伴わず少し覚めた態度でセックスをする私への抗議だと勘違いしたせいだ。動揺を隠すようにヘラヘラとした表情を作り切り返した。「どんなものを言うのさ?」
「無いんだね。そのためには相手を好きじゃなくちゃいけないんだよ。」笑うこともなく目をもう一度スマートフォンに落とした。
「俺は千秋のこと、得体の知れない部分もあるなとは思うけど好きだよ。」木陰が作る小さな影が顔を覆うとき目蓋の力が抜ける。日向にいる時に妙に力んでいたことを逆説的に自覚する。力の抜けた目に千秋の驚いた表情が映る。
「私も。」快楽は倫理や規範の外に隠されているのかもしれないと千秋をみて思っていた。時代が作る堆積に埋もれて大半の快楽は手が届かなくなってしまったが、この時代に残った快楽は良識の外で手を差し伸べるものを待っている、そう思えた。
「じゃあ一緒に何か悪いことをしよう。」
「なんだそれ、それは勝手に1人でやってください。」
 レースの結果は4番人気が1着だった。千秋は18番人気の単勝に5千円を、私は1番人気と3番人気を軸に6万円を賭けて溶かした。千秋はスマートフォンの電卓機能に表示された仮想の払戻金額、113万円を何度もうわ言のように繰り返しながら文字通り地団駄を踏んで悔しがった。そんなに悔しがられると俺が悔しがりにくいよ、と言うと少しだけ笑い、ストーリーを更新してからまた不機嫌になった。
 それから数日後に棚に保管した金庫から20万円と金庫のスペアキーが消えていることに気付いた。もう1つの鍵は私が持ち歩いていた鍵束に付けていた。私が家にいる間に行われた出来事だということだ。
 はじめ、私は後になって返すつもりなのだと思った。もしバレないだろうと高を括った行動ならば鍵はそのままにしておくだろうと思ったからだ。さらに、金庫には合計25万円を保管してあり、5万円が残っていたからだ。すべての証拠隠滅が杜撰であり、最初は怒りこそ湧けどなんらかの意味があるように思えた。正確にはそうであって欲しいと願っていた部分もあったかもしれない。私の腕の中で穏やかな表情を浮かべ眠る彼女に唇を重ねた。柔らかな唇だった。シワが寄るくらいに強く目蓋を閉じてから目を開き、2つの大きな眼球をこちらに向けた。普段着けているカラコンとは違い瞳の中央は真っ黒で、光を嫌う深い穴であることが分かる。その周りは昆虫の作る土の塀のように細かい幾何学模様をしている。その瞳は間違いなく私を捉えているのに、彼女が何を見ているか私には分からなくなった。小さく浮かべた不安の色を見逃さず、彼女は穏やかに笑う。その笑いがさらなる不安を煽るが、今度は表情には出さない。繊維の逆立った肌を滑らせ、彼女の太腿を弄った。乾燥した肌の下で波を伝える脂肪組織が揺れる。
「眠れんの?」穏やかに笑う目の下で、丸々太った蛭のような唇が動く。頬の裏の肉がわずかに見える。血色の良い肉の色だった。絶えず唾液が分泌されて液体が循環している。私は彼女を快楽を閉じ込めた袋のようだと思う。膣の襞を丁寧になぞるようにした。異物を除去するように筋肉が波打ち、指を外へ追い出そうとする。彼女は顔を背けて、ウザい、ウザい、と繰り返した。その身体に溜め込んだ快楽を口から吐き出すまで続けてやろうとした。何度も腰を揺らしたが5度目で数えるのを辞めた。当然ながら彼女が快楽そのものを吐き出すことはなかった。

 私は思い出した。私は都会を駆づる虫に成りたかった。怒りなどはとうになく、彼女のことをただ汚さなくてはならないと思った。彼女は汚されることを求めているという強烈な妄想が頭を支配した。妄想であると自覚すれど頭からは拭い去ることが出来ない。萎えてしまった自分のものでは汚すことさえままならない。食べ易いだけの食餌が私を少しずつ殺していることに気付く。彼女のような虫に、善悪を知らぬ虫に、生に必死にしがみ付く虫に成りたい、そう思うなり中指だけではなく身体の表面が乾いていった。気化熱で少し冷えた中指を彼女の首に回した。肉で埋まった喉仏に第二関節が掛かり、唾液を飲み下す動きがありありと分かった。そのまま首をこちらへ引き寄せる。甲高い男の声が流れる携帯電話が落ちた。彼女の首の動脈が脈打っている。締める力を強める。頬が淡い赤に染まる。彼女は手を解こうと踠いている。淡い赤が濃くなっていくのが見たくなり、もう片方の手も首に掛ける。床に打ちつけるように足をバタバタとさせている。じっとりとした汗で手が滑りそうになる。深く呼吸すると自分と同じシャンプーの匂いがした。指を再固定する。少しだけ緩んだ気道の隙間を空気が流れる音がする。爪が食い込み腕から血が流れていることに気付く。淡い赤は濃くなるのではなく鳥肌の立った首筋にまで広がった。同じ文言を繰り返し、いつまでも軽快に話し続ける男の声だけがどうしても不快だった。

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