M-1レポート2022

 西陽は既に、部屋一体に強い陰影を作っている。レースのカーテンがフローリングに蔦を巻いている。蔦の届かない陰で、哲夫は小さな背中を丸めて、座り込んでいる。ゲームに夢中になっているのだろう。最近のポケモンは機械のように車輪で走るらしい。
 愛はダイニングテーブルに項垂れていた。突っ伏した両腕に、ビニールのテーブルクロスの冷えた感触がする。スイングされた暖房の風が一定のリズムで頬を撫でる。哲夫のゲーム機が発する不明瞭な電子音。小さな部屋に不釣り合いな大きさのテレビが放映するCM。固まってしまいそうな足を伸ばすと、向かいの椅子にぶつかった。足先の痛み。野菜や肉が落ちる音がした。昼の買い出しの後、食材を冷蔵庫にしまうことなく居眠りしてしまったことを思い出した。中には、牛乳もあった。
 反射的に、既に固まった首をもたげた。視界の先で、暖かな光が部屋のチリを照らし出していた。アジの魚群のようだった。ミッドライフクライシス。荒井由美ならどのような詩にするのだろう。
「ねえママ、お腹空いたあ。」ゲーム機から顔を上げることなく、哲夫は言う。 
「ママねえ、根が生えちゃった。」
愛は歌手になりたかった。

 根粒菌という微生物は窒素固定という方法を使って、植物と互いに生きていくために必要な栄養素を交換し合うのだと中学の頃に習ったことがある。これを共生と言い、自然界の生き物たちは支え合って生きているのだと、先生は自分のことのように誇らしげに言っていた。しかし最近では、働きの悪い根粒菌に植物は栄養素を届けないという学説が定着しているそうだ。ショート動画を巧みに使うユーチューバーが言っていたわけではなかった、と思う。共生関係だと言われていたものが本当は寄生であることが判明したりなど、その境界線を客観的に判断するのは専門家でも難しいそうだ。
 ダンビラムーチョがネタにするような、駅の変わったおじさんも大きな会社にリストラされた哀れな根粒菌なのかもしれない、と思った覚えがある。

 CMが明けた。荘厳なキャッチが流れ、寒空の下でパイプ椅子に座った客たちが映し出された。敗者復活戦が行われている。今日はM-1だった。出順7番のストレッチーズが舞台に現れた。一瞬だけ映された戦歴は2015年からだ。2014年結成、夫、誠の同期だった。誠は、未だうだつの上がらない漫才師をしている。今頃は芸人仲間と安い酒を片手に、あーでもないこーでもないと言いながらテレビにかじりついているのだろう。そして恐らく、それを心から楽しんでいる。高い熱を帯びた溶岩質のような、ひび割れた「M-1」のセット。崖っぷちに立ち、12月の冷たい風に晒されながらも熱病の中に剣を抜く狂戦士たち。そんな幻想を抱きながら崖の下で骨まで溶かし笑う誠を、愛は思った。夢を追い続ける才能、皮肉な響きだ。
 ストレッチーズの漫才は、演技掛かっていた。愛にはそのように見えた。しかし同時にリアリティもあるように思えた。立ち位置が左の、センターパートの男に既視感があった。学生時代の先輩のヨシカワという男に似ていた。顔の表面が脂で光っていて、表情を豊かに変化させる。精強で活動的な印象だが、小ぶりなその目はいつも据わっており、周囲を観察するというタスクを忘れることはない。群れを形成し縦社会の中で生きる野生動物然としている。人を操ることに長けた人物だった。ヨシカワの純粋な喜怒哀楽を判断出来なかったが、何かを無邪気に面白がる表情だけは恐らく本物のように見えた。愛は、そんなことを思い出した。
 また、漫才が始まり愛は別のことも思った。少しくどいツッコミ、貸し借りの1000円という額に透ける作為的な滑稽さの演出。愛には、やはり夢を追い続ける才能はなかった。なにもせず、テレビの前でスーパースターの出現を待ち望んでいるだけ、そう思うと反射的に、言い訳もいくつか頭に思い浮かんだ。乾いた笑いが漏れた。

 哲夫はおもむろに、ダイニングテーブルを挟み愛に向かい合うように座った。ますます傾いた西陽が蔦を生長させ、哲夫にも絡みついた。売れるまでの仮住まいだからと借りた西向きの部屋。終末の審判が今にも降りそうな気分になる。傾いた陽にはその説得力がある。机上に置いた浅い皿にコーンフレークと、床に横たわった牛乳を注ぎ、哲夫はそれを食べ始めた。視線はゲーム機から外さないまま。叱るような気分にはなれない。
「何言ってんだお前、びっしゃびしゃじゃねえか。」ハイドロポンプ。負い目を持たない正義の味方が必殺技を打つようなポーズだ。愛は、ボケの男とヨシカワを重ねたまま、ついには別けて考えられなかった。ヨシカワは負い目を持たなかった。負い目を持たず、分かりやすい演技をする。ツッコミの男は自身の正当性のために、客に話を振った。客とのやり取りを意識した剥き出しの漫才の技巧。ヨシカワは客にハイドロポンプを打ちまくった。サザンのライブみたいだな、と言ったころには会場の空気を完全に掌握した。ふふふっ。笑い声に哲夫が反応し視線をテレビに送った。なにごとか、と言っているようだった。子供は親の笑いに敏感だ。
「1000円を返してくれえ!」ヨシカワ相手に1000円のことをもう一度ぶり返せるのは、よく頑張っている方だ。にしても人前に立つ人間の表情ではなくなってきている。可笑しくなってくる。ヨシカワは多彩な手口で様々な追及を逃れる。感情と正論で追及を試みるツッコミは、舞台の上で徐々にリアリティを纏った。眉間にしわを寄せ、黄ばんだ歯をむき出し、唾を飛ばす。もう苛立ちを隠そうともしない。

 ヨシカワに言いくるめられ暴発するツッコミと、行き場のないハイドロポンプを見ていると、自然と愛の表情に笑みが浮かび、気付けば声を出して笑っていた。
 カゲヤマもビスケットブラザーズも、声を出すほど面白かった。きちんと気持ち悪かった。愛は何も考えずに笑える気持ち悪い芸人が大好きだった。CM明けのななまがりに愛は期待した。それまでに夕飯の支度をしなくては。

 誠の帰宅は、日付が変わる少し前くらいだった。愛は哲夫をすでに寝かしつけて、敗者復活戦の録画を見なおしていた。
 誠は白いビニール袋からビールと発泡酒を取り出して、ビールの方を愛に差し出した。誠の目は淡く赤みがかっていて、少し腫れぼったかった。充血こそしていたが、瞳の奥が濁ることはなかった。甲子園で負けた球児のようだ、と愛は思った。誠をマジマジ見つめ直すと、ノートに拙い歌詞を書きつけていた日々のことを思い出した。
「今年もありがとう。」
「いえいえ、おつかれさまでした。」
 誠はひたむきに夢に向かっている。隣にいる愛はそれを誰よりも知っていた。きっと数時間前に流した涙も澄み切った美しいものだったのだろう。小さく埃っぽい一室で指を咥えて見ているしかない自身の境遇に情けなさを感じて涙したのだろう。少しは私と哲夫のことも思ったかもしれない。
「来年にはこの部屋、引っ越せるように頑張るよ。」
「期待してる。誠さんなら出来るよ。」
 誠を支えている実感は、愛にとって心地の良いものだった。愛に深く根を張る未練に、適度な刺激を運び、そのまま固定する。小さな劇場の定期ライブのために、毎度ネタを書き下ろす背中をなでる手のひら。彼が挫折するたびに、根拠のない希望の言葉を紡ぐ舌。愛は、誠に売れる日が来ないことを知っている。蔦に陽を奪われた者の生き方を、誠には出来ないからだ。

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