会話と海

「まあまあライン」と呼べるものが会話にはあるように思う。それは核心に触れる閾値の少し手前、この流れだとその閾値を超えてしまうその寸前。主にそれは冗談として、表現される。
「まあ、そんなこと言っても僕は童貞だからね」
「まあまあまあ、熱くなりなさんな」
ナンセンスな発話により、場が和む、もしくは興醒める。まるでこれ以上息が続かず、息継ぎをするように。息継ぎを繰り返すと、気づけば私たちは浅瀬にいる。「まあまあライン」は足がつかなくなる、海辺の閾値だ。
会話とはひとつの空間である。それはゲームに似ている。そしてゲームと同じように流れに乗っていくとどんどんと没入していく。そしてそこに「ほんとうのこと」が出現する。なんであんなことを言ってしまったのだろう、でも本当は私はそのことをずっと言いたかったのかもしれない、そんなことがよくある。それは決まって没入し、その会話以外に世界などないようなそんな感覚の瞬間の持続である。
 私だけが息を止めて、ずっと息を止めて、深く潜ろうとし、そして、誰かの息継ぎに合わせて水面に浮上する。よおく見てみろ、水底でこちら睨んでいるのは「ほんとうのこと」だ。あんな恐ろしいものに捕まるのはまっぴらごめんだ、俺たちには気持ちの良い浅瀬と、陸があるじゃないか、人間じゃないか。このままでいいじゃないか。そんなことを繰り返し言われる。そうかもね、1人は怖い、確かにそうかも。砂に足がつく、みんな浅瀬で水を掛け合う、私だけぼんやり海の向こうを見ている。ニライカナイ。海の向こうから我々はきた。そんなことを頭の片隅に泳がせる。
 それが私のつい3年ほど前までの風景である。
 しかし、最近風向きの違いを感じる。「まあまあライン」の向こう側にお付き合いしてくれる人に多く出会えたのだ。とてもありがたいことである。
 私たちは人と語らわなければいけない。私は、海は、ほんとうのこと、は、まさに他者と自己の間にしかない。奇しくも、陸は海で隔てられるように、そして陸は海底と連続体であるように、である。
 このあいだ、タロット占いをしている人を見た。タロットの前では人は精一杯海に潜るようである。それはまるで詩を知らぬ人の詩を語る場面のようであった。
 答え合わせのできぬ場では答えは一種の詩の形態をとる。わたしは人と海を繋ぎたい。それはなるべく海を侵さずにである。
ウルトラセブンの話の中にノンマルトという海底人の話しがある。海底に人間よりはるか昔から先住していた人々がいて、実は人類こそが侵略者であった、という話だ。ノンマルト達はついに人類に滅ぼされる結末を迎える。ノンマルトは言う、ただ静かに暮らせればよかったのに。
 私のしたいことは実に愚かで、そしてもっとも人間らしい悪なのかもしれない。掘り起こされなければ安寧に暮らせたのに。そんな呪いを一身にうけて、堪らず逃げ出すことの連続。馬鹿なことをしたなあ。そんな風にのたまう後悔の種かも知れぬ。
 ただ、それでも、そこに何かわたしの求るものがあるような気がするのである。そして、できれば彼らを守りたいのだ。彼らを守るということが、ただ目を背けるということではないことを信じたいのだ。
 私が人間活動に絶望しないのはそういった観念があるからである。まさに芸術はそのためにこそあるのだと思いたいからである。

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