異類婚姻譚

 いまや離散した私の家族は一度だけ、家族旅行をしたことがある。北海道から青森秋田岩手。3泊4日、みちのく東北旅。私にとって唯一の家族旅行の思い出。その時に、道の駅で母親に買ってもらった東北の民話という小冊子を私は後生大事に持ち歩いていた。
 その中に八郎太郎伝説というものが掲載されていた。十和田湖には昔、仲間への不義理の罰として龍となってしまった八郎太郎という主がいて、旅の僧侶と格闘の末、その湖を追い出されてしまう。そして、八郎太郎は放浪の末、同じ境遇の辰子姫という龍と結ばれるという伝説である。
 子供心にその民話は残っており、確か「八郎太郎は何も悪くないのに可哀想」と思っていた記憶がある。そのことを最近思い出し、調べてみるとなるほど運命的なものを感じる。八郎太郎は両親の業により、そして仲間との掟を破ったために龍となる。ひっそりと誰にも会わないように湖の主となる。現れた旅の僧侶は弥勒菩薩からのお告の成就のために八郎太郎を十和田湖から追い出す。八郎太郎からしたらたまったものではない。ひっそりと暮らそうとしていた、その場まで奪われるのだから。他人の知ったこっちゃない願いのためにである。そして、八郎太郎は生きるために川を堰き止め住処としての湖を作ろうとするが山の生物たちの反感をかい、またも追い出されてしまう。終の住処をさがすために東北を行ったり来たりするのである。
 私はこの八郎太郎のみじめさに共感していたのかもしれない。私にはどの場にいても、そこを終の住処と思えない癖がある。いつかは去らねばならない、この場から私はいなくなるべきなのではないかという空想だ。
 小学生のとき、N君という友人がいた。朝一緒に登校する彼は私の父親からとても気に入られており、いつも3人でいろいろなところに出かけていたのだ。私が密かに思っていたのはN君が私の家の息子になるべきであり、そのために私は消えるべきなのではないかということである。もしそのようになるのであれば空転するこの世界はバチっとピースをはめて、完璧な形を取り戻すのではないか。そのようなことを考えていたのである。
 無能な龍神はまさに私であった。どこからも追い出され、どこにも行くあてがなく。ないなら作ればよいのだと息巻いて、しかし、それは生存というパイの奪い合いである。それならば私が去るべきだ。しかし、卑しいことに私は生存をしたいらしい。とても悲しい気持ちが心に去来するのだ。私は私の卑しさを嫌悪する。卑しきこの龍の身を捨て去れたなら、私はすぐさま消えてなくなれるのに。しかし、私の身体は浅ましくそれを許さないのだ。
 それが私の原風景であり、民話の中にそれを見出していたのかもしれない。
 だからこそ求めるものがわかる。辰子姫のような罪を共有してくれる半身のような女性がいたら。そのような愚かを浮かべるのである。詩の炎を吐きながら、法華経の句の剣に貫かれる私は哀れな妄想に願いを託すのだ。
 辰子姫は自らの美しさが永遠ではないことを恐れて不老を願った女性である。その浅ましい願いのために異類に身を堕とし、それは罰なのだと嘆く。その娘と結ばれるため、八郎太郎は最後壮絶な戦いを繰り広げる。
 私も闘うべきときが来ることをのぞんでいるのである。異類の私は人とはいられぬ。ならば同じ罪に苛まれる女と、その傷を舐め合って生きていくことは出来ぬだろうか。そのような妄想。それが私の願いだったのだ。
 私は私を探している。正確には異類と成り果てた私の魂が救われることを願っているのだ。
 今日私が初めてちゃんと話した二人組との帰り、私は無性に悲しくなったのだ。やはり異類は一人でその身が滅びるのを待つしかないのではないか、そういった寂しさが去来したのである。通じ合うことがあっただろうか、ただ私の異形に心底恐れていたのではないか。その私が異類婚姻譚を語る日はくるであろうか。同じく、とぐろを巻いて湖の底に沈んでくれる誰かと出会えるのだろうか。それは虚しさという言葉ではあまりに辛い、辛いものであったのだ。貴方もお願いだから異類でいて。卑き願いは賤しさでまた本にシミを作ったのである。汚れた本に買取価格はつかないのに。

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