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いつだって青春

大きく「心」と書かれた色紙は、私の母方の、亡き祖母の作品だ。たしか母から受け取り、私の手元に来た。
祖母は書道8段だった。どこに所属していたかは知らないのだが、私が小学生くらいにはもう、年賀状が達筆すぎて読めず、その時に段位を聞いた覚えがある。

祖母は、母が言うには若い頃は「お嬢さま」だったそうで、明治生まれだが、女学校に通っていたとのこと。祖父もそこそこの家柄だったようだが、詳しくは分からない。なぜなら、祖父は戦中にまだ4歳だった母を含む6人の子供と、妻を残して亡くなったからだ。幼い頃の私は、夏休みになると母に連れられ、祖母宅にお邪魔していたが、遊んでばかりで昔の話を聞いたことがなく、母も早くに死に別れた父のことを覚えていない。母の姉たちに会う機会も、ほとんどなかった。ぼんやりと、祖父が立派な制服姿で、馬に乗っている写真を見た記憶があるだけだ。

時代が時代だけに、戦後、祖母は女手1つで6人の子供を育てることになり、とても苦労したそうだ。想像するだけでも、大変だったろうと思う。母も、子供時代は常に貧困で、修学旅行に行けず、衣類は上からのよれよれなお下がりばかり、クラスで惨めな思い出しかない、というような話をしていた。

前述の通り、祖母は「お嬢さま」でありながら、結婚し、家族を得てから、様々な要因で、世間知らずから強い母にならざるを得なかったのだ。働いて、働いて、再婚もせず、恋愛をする暇もなく、きっと自分の楽しみなど考えずに、家庭を守りきったのだろう。

そして、母も、母の姉妹も結婚し、親離れした時に、ようやく自由を得たのかもしれない。祖母は、定年退職した60歳から、書道を始めた。もともと女学校での素地があったのだろうが、8段にまで昇格した。日展にも2度ほど作品を出したそうだ。
また、時々ハワイ旅行に出かけていた。写真を見せてもらったことがある。多分、祖母は英語が達者ではなかったと思う。ハワイだから、日本語でもそれなりに通じただろうが、1人で、中年を過ぎて、ぽんと海外旅行に行く、そんなアクティブさに、私は今でも驚愕する。

60を過ぎても、祖母はお洒落だった。様々なことに挑戦していた。母いわく、気の合うボーイフレンドもいたのではないかとのこと。
これは私の勝手な推測だが、祖母はかつてやりたかったことを、年齢など気にせず、楽しんでいたのではないだろうか。責任を果たしたのちに、己の為に生きることを選んだのではないだろうか。

身内に、そのような存在があるのは、私にとっての希望だ。夢だ。何歳になっても、人生は青春を謳歌できると、教えてもらった最高の見本だ。
今はまだ無理でも、私は孫として、その心を継いでいきたい。いつだって、楽しいこと、幸せなこと、学ぶこと、人と触れ合うことができるのだ。生きて、死ぬまでは、ずっと。

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