依存するもの、されるもの

私は『共依存』のカップリングが好きだ。大好物だ。
特に、一見すると依存してる側が、実は依存されている側の唯一無二の支えになっていて、より危険かつ切実な想いを相手に抱えていると、興奮して、それらしきシーンを何度も読み返してしまう。ささいなことでいいのだ。返事がなかなか返ってこないスマホをじっとみつめているとか。相手が眠ってから、そっと布団をかけ直してあげるとか。色恋のシーンでなくてもいい。むしろ、それがいい。なにか少しでも、相手に対し精神的に寄りかかっている場面があると、顔がにやけ、喜んでしまう。

だが、これがリアルの共依存だと、とてもつらい。しんどい。苦しくてたまらない。
私はかつて、仲の良かった友人が、産後うつで帰らぬ人になってしまった過去がある。彼女は、自分が重度のうつであることを、職場のごく一部、上司等に伝えていただけで、産休中もあり、知っていた者は限られていた。私も、知らなかった1人だ。

突然のことに、お葬式で私は号泣し、仲間からは「明良が悩むことはないんだからね。明良のせいじゃないんだからね」と優しく諭されたが、当時の私は、自分で自分を責めた。なぜ、気が付かなかったのだろう。一度、様子のおかしいメールが来ていたのに、自分も不調だと言い訳しながら、どうしてスルーしてしまったのだろう。近場に住んでいたくせに、会いにいこうとしなかったのだろう。思いは、一種の呪いのように変化した。
「いつか会おうね」の「いつか」は、永遠にやって来ないこともあるのだ、と。

そして、何年か過ぎ、同人作品を通じて、親しくなった人がいた。私より年下で、私より素晴らしい作品を書く方だった。ファンになって、自分もその人とお近付きになれたらと、いそいそと同人誌を出し、結果として彼女と友人になれた。
嬉しかった。可愛らしい人だと思った。メアドを交換してからは、毎日毎日、往復で数十通のメッセージをやり取りした。仕事中でも休みでも、メールがくればすぐに返信し、ネガティブになっていたら自分なりの精一杯で励ましたり慰めたりした。

相手は地方に住んでいらしたから、イベントやオフ会に行くための飛行機代がない、と連絡があれば、チケットをとって送った。何度も。都心から少し離れてはいるが、泊まりはうちに来たらいい、と我が家に招いた。とにかく必死だった。その友達が、かつて自分から生涯を終えてしまった友と重なって見え、甘えてもらえるなら、なにかの力になれるのなら、と、一種の中毒のように夢中になった。

しかし、そんな関係は2年ほどで終わった。徐々に距離を置かれ、いつの間にか私はグループチャットのようなものから弾かれ、縁を切られた。その人の、前からの友人からは、長々と私の仲間に対する思いやりのなさをメールされたが、ショックで詳しくは覚えていない。ただ、返事として、私がもう疎ましい存在になったとしたならば仕方がないけれど、楽しかった時間もあったことだけは、できたら覚えていて欲しい、というようなことを送った気がする。未練がましい最後だった。

もちろん、相手方にも私のことで、不平不満が積もり積もっていたのだと思う。どちらが悪いという話でもない。私は私の視点で見てしまうから、切り捨てられたというのも、本当は違うのかもしれない。ストーカーのように見えていた可能性だってある。

他の方から、私はなんでも与えたがり、それが依存されるし、依存してしまう悪い面に変わりやすいのかも、と言われた。たしかにそうだ。私は、「いつか」が失われることに、ことさら敏感になり過ぎていた時期があった。傲慢にも、私が安らぎをもたらすことが出来るのならば、などと一方的に思い込んでいた。そこに、相手の気持ちを慮ってない、と指摘されれば、反論などできない。

依存するのも、されるのも、原因があって、言動があって、それぞれの考えがあって、変な噛み合いが起こってしまうと、簡単に、身近に、その関係が出来上がってしまうのだと実感した。特に私は、極端から極端に走るので、要注意ではある。

まあ、そんな諸々がありつつも、作品内であれば、『共依存』が相変わらず好きでたまらない。まったく学習していない。せめて、その訳の分からぬ情熱を、現実に持ってくることだけは、避けたいところだと自戒するのみだ。

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