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いつでも自分が主人公説

自分の人生において、いわゆるモットーのようなものがある。いつでも「自分が主人公説」。

これは、自分が中心じゃないと気に入らない!サブキャラなんて絶対に嫌だ!!というような私が信じられないくらいワガママ女というような意味合いではない。(そりゃできることなら常にプリンセスであるに越したことはないので、その意味も少し含む)

私の唱える自分が主人公説、それは人生における困難の壁にぶつかった時のためのおまじないのようなものだ。

例えば就職活動中、まるで何事もなかったかのように届く不合格メール。買ったばかりのお気に入りの洋服に着いた麻婆豆腐のシミ。残業終わりの身体に鞭を打って終電に駆け込むも、乗った電車は逆方面。大切な人とのあまりにも突然すぎる別れ。長年交際した相手から実は別の人が好きだったと告げられる。人生はときどき厳しい。もう無理だ、と思わず溢してしまいそうな経験は誰にでもあるだろう。そんな時、いつも私はこう思う。「あ〜今の自分にはこのくらいがちょうどいいな」思い切って挑戦して失敗した時。思わぬアクシデントに見舞われた時。ちょっとしたミスで落ち込んだ時。大切だった人から裏切られた時。心の中でそう呟いて、ここから意地でも這い上がっていくだけかと考えれば、いつでも誰でも物語の主人公になることができる。逆境の壁にぶつかる度に、結構本気で毎回そう思っている。

小説や映画の主人公が苦しみや悲しみに立ち向かうのは、その先にハッピーエンドが待つことを信じて疑わないからだ。そして実際、ほとんどの物語は相応のハッピーエンドで終止符を打つ。(そうじゃない物語の方が個人的には好き)逆境や失敗は、むしろ人生という物語に深みをもたせるために必要不可欠なもの。以前の投稿にも書いたが、挫折経験のある人の方がどこか魅力的、というのも同じ考えゆえにそう感じるのだと思う。どん底の時、もう二度とこんな思いはしたくないと思うし、信じられないくらい自己嫌悪に陥るけれど、その挫折経験は人の痛みに寄り添うための、そして自分を圧倒的に成長させるための糧になる。そう信じて日々自分を成長させていきたいものだ。

ずっと好きな音楽のひとつに、Mr.Childrenの名曲「終わりなき旅」がある。

"難しく考え出すと
結局全てが嫌になって
そっとそっと
逃げ出したくなるけど
高ければ高い壁の方が
登った時気持ちいいもんな
まだ限界なんて認めちゃいないさ"

登る壁が高ければ、その分その後には
見たことのない景色が待っていたり。
後ろを振り返ると、いつか流した涙の理由も
もうはっきりとは思い出せなかったり。
これから先の人生で、自分はあといくつ壁を登るんだろうか。そう考えると、ちょっと嫌になる気もするし、わくわくする気もする。

あと1番忘れちゃいけないのが、自分を成長させることだけに、自分のことだけに集中しすぎないことだ。自分の周りにいてくれる人をこれ以上ないくらい大切にしたい。幼少期から自分のことを深く理解してくれている地元の友人、勉強や部活動に切磋琢磨しながらともに向き合った高校時代の友人、未知の土地で不安な気持ちを安心感と愛情で包み込んでくれた大学時代の友人。その他昔習い事で関わった友人やゼミが同じで一時だけ一緒にご飯を食べていた友人、就職活動を通して出逢えた自分とは程遠い憧れの人、前職でお世話になった同期や先輩、上司。優しさと強さを兼ね備えた包容力でいつも包み込んでくれる恋人。そしてどこまでも過保護で(いい意味で)これまでの人生で「やりたい」と言ったこと全てに快く挑戦させてくれて、辛い時はいつでも帰ってくればいいよと美味しいご飯を作って待っていてくれる家族。関わった期間がたとえ短くても長くても、少なくとも自分と関わりをもってくれた人には、出逢えてよかったと思ってほしいし、願わくば苦しい時や辛い時にふと私の顔が浮かんで、「かほに会いたくなった」と思い出してほしい。自分のことだけを考えるのに必死になるのではなく、周囲にとって"何回会っても飽きない人"であり、周囲をプラスの方向へもっていける人物こそが主人公。もしかすると少し上から目線に聞こえるかもしれないが、周囲への感謝+自分といることで周りの人にプラスの影響を与えられれば、それほど幸せなことはないと思うのだ。人と関わる時、①相手の良いところを必ず見て、できるだけ好きでいること、②相手に寄り添って同じ目線で話を最大限に聴くこと、③それでも傷つけられた時は黙って何も言わずに離れること、人間関係においてこの3つを自分なりにではあるが、精一杯心がけるようにしている。(まだまだ足りてないな)

ちなみに、どうでもよすぎるが、
今流行りのmbti?を診断してみると
私はENFJの主人公タイプ!歓喜!

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