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頑張らない風潮

努力できる人が好きだ。
男女問わず、昔から目標に向かって頑張れる人にとてつもなく大きな魅力を感じる。
それを表に出さない人はなお好き。
表ではあたかも「自分は努力なんてしたことがありません」みたいな顔で、裏で誰にもその姿を見せることなく、血が滲むような努力をしている人。

思い返せば、自分の人生にはいつも近くにそういう人たちがいてくれたように思う。そして自分もそうなりたい、ともろに影響を受けてきた私。頑張る人が近くにいると、自分ももっと頑張りたいと向上心が必ず刺激される。本当にありがたいことだと思っていて、感謝している。

そうやって、自分も選択に迷った時にはいつも頑張る道を選択してきたつもりだ。もともと自分でも嫌気がさすほど要領が悪く、無駄か無駄じゃないかで問われるなら、無駄だった努力も多くあると思う。でも、何かに向き合う時間や手段を無駄か無駄じゃないかなんかで判断したくない。人によれば、そんなのただの効率の悪い馬鹿じゃないかと言われておしまいかもしれない。それでも私は、毎回呆れつつも、そんな自分が結構好きだったりする。人生一回きりなんだから、効率が良いに越したことはないし、本当にすべきことを要領良くこなしていくべきだという考えはもちろん理解できる。でもそれと同時に、無駄か無駄じゃないか、もしくは正解か不正解かだけで経験や思い出を判断するなんてそんなつまらないことないとも思う。人生で無駄だと言われることをいっぱいすること。それさえも経験値になると思って前に進める人でありたい。これから先、年齢を重ねていく中で、もしかすると考え方が変わる可能性もあるけれど現状25歳の私はそう考えている。

一方で最近感じるのは「頑張らない風潮」。
頑張らなくても生きているだけで偉い。
苦しい時は逃げていい。
そんな言葉もよく耳にする。
それらを聞いて、もちろん心が楽になる時も正直あるし、否定することはできない。
ただ、その言葉の沼につかってしまうことは怖い。逃げていいのは、本気で死ぬほど努力をして、もうこれ以上はできないというほど頑張って、それでもやっぱりダメだった時だけじゃないのか?スポーツ経験もあるからか、その考えがどうしても根強く残っている。何かを途中で辞めることは逃げだという考えは、私を時に強くさせ、時に苦しめた。苦しい状況でも頑張れる根性をもちたい、常に自分を磨き続けたいという気持ちは大切にしたいけれど、それで心を痛めつけてしまうのでは元も子もなくなってしまう。昔からもともと全くメンタルが強い方ではないくせに、強く見せるのが得意な私。いまだに自分を追い詰めすぎて、心が追いつかなくなることも少なくない。メンタルを壊す度に、頑張ることが怖くなったし、こんなことなら全部いっそ適当にこなした方がマシだと思ったりもした。でも妙に完璧主義な私にとって、適当に力を抜きながら要領よくこなすことはかなり難しい。

前職で営業をしていた時に学んだことがある。それは、何もかもに全力投球することがいいとは限らないということ。抜くところは抜く。サボるところは割り切ってサボる。それも仕事をこなしていく上での重要な能力だということ。そして何より大切なのが、どこに力を入れてどこを抜くかのバランス感覚。もはやセンスだと思う。実際仕事を通じて、そのセンスが光る人たちに多く出逢った。その人たちからバランス感覚を直接学べたのはいいものの、自分の力として発揮するのはやっぱりなかなかに難しく、残念なことに社会人3年目になった今も私にはまだまだセンスがない。「頑張らない風潮」に甘えてしまい、力を抜きすぎてただの頑張れてない人になってしまったり、急に焦って頑張りすぎたり。センス皆無。どこを精一杯頑張って、どこで力を抜くか。その判断が的確にできるようになりたい。

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