ドストエフスキー『罪と罰』上巻感想
多分三回目くらいの通読。ラストの「生活を愛する」という言葉を探してちょっと手に取ったつもりが結局読むことになった。下巻も通読しようと思う。高校時代に倫理の先生が「ドストエフスキーとウィトゲンシュタインは常識」みたいなことを言っていて、挑戦したのだけど結局挫折。大学一年の時に通読してからこの作品はとても好き。何が好きかと問われたら、「畳み掛けるような心理描写と台詞」みたいなことを言っているのだけど、これは原作者と邦訳者のどちらに負っているものなのだろうか。僕はロシア語を全く解さないのでドストエフスキーの原文がどのような調子なのかをみることができないのだけど、訳者の異なる『カラマーゾフの兄弟』も楽しく読めるようになってきたので、ドストエフスキーの文章に魅力的な切迫性があるのだろうと思っている。
ともかく、胸中にある老婆殺害計画を実行に移すか移すまいかの逡巡や、殺害後に心理的に追い詰められていく様子の描写は自分にとってとても印象的で、初めて通読したことから私自身、近所の老婆を殺害したあとという状況の夢を断続的にみることになった。
今回読んだのはこちら
ラスコーリニコフとマルメラードフの境遇と心情
今回特に印象的だったのはラスコーリニコフとマルメラードフの境遇と心境だったと思う。前者はこの物語の主人公。実家を離れてペテルブルクで大学生をしていたのだが、この物語の始まる少し前に大学と家庭教師の仕事を辞めている。家賃を滞納し、実家からの仕送りに頼って極貧の生活を送っているが、自身の信じる価値観は堅持している。その一方で、自身が家族を食い物にしつつ高尚なことを言っていることを客観視して自嘲してもいる。次の引用はラスコーリニコフが母からの手紙で妹ドゥーニャ(アヴドーチヤ・ロマーノヴナ)の結婚の決意を知り、その結婚に彼の信念では許せない思惑があると看破した時の独白である。ドゥーニャの相手であるルージンの言動の中に下劣さをみて、ドゥーニャの決断は財産のために自身を犠牲にすることだと判断したのだ。
次に、元役人のマルメラードフだ。彼は物語の最序盤にラスコーリニコフがふらりと寄った居酒屋で登場する。彼は幸運にも官吏の仕事にありつくことができ、一家と高貴な出の妻を喜ばせていたが、すぐに仕事をすっぽかして飲んだくれてしまい、今では娘が身を売って稼いだ金や生活必需品を売り払った金で飲み歩いている。しかも、本人曰く、飲むのは苦しむためなのだ。
酒とか薬とかギャンブルとかそういったものへの依存が語られる時、それらのものから得られる快楽や、それらがなくなった時の苦しみが理由にあげられることが多い。しかし、そうではなくて、実のところある種の安定感に依存しているのではないか。マルメラードフは家族を顧みず、飲み歩くダメな父親という役回り、家族の苦しみ、周囲や自分から自身へ向けられる蔑視、そういった環境が自分の居場所だと感じている。自分がその役回りを演じている限り自分は存在することができる。言ってしまえば、そのようにあることを自分のアイデンティティとしているのではないか。逆にいうと、社会的に承認された身分(会社員とか自営業者とか学生とか)を持っていて、それを維持することもそれぞれの安定感に浴しているに過ぎないのではないか。どちらにせよ、明日自分が何をするのか、するべきなのかということを考えることなく、すでに固まった役回りを演じればいい。結果的に自己の存在意義なんかを問うことが必要なくなってくれる。
ラスコーリニコフの不安定な心理
この小説の中心となる出来事はラスコーリニコフの起こした老婆殺害事件であり、そこにドゥーニャの婚約と前述のマルメラードフの一家が絡んでくる。殺人事件こそラスコーリニコフが前々から計画してきたものであるが、他の二つの事件は殺人の実行とほぼ同時に起こってくるのであり、複合的な状況とそれに関わる人物たちに囲まれる中でラスコーリニコフの内面は激しく揺れ動く。その心理状況をラスコーリニコフは多くの場合行動に表出させるのであり、さまざまな場面で彼の言動は一貫せず、一方の極からもう一方の極へと瞬間移動する。
例えば第一部のあるシーン。考え事をしながら昼の街中を歩いていたラスコーリニコフは、酔ったように足をふらつかせ、誰かに乱暴されたことを思わせる不自然な格好をした少女と、その少女をつけねらうしゃれ者を見かける。ラスコーリニコフは少女を男から守ろうとして男と喧嘩になり、そこに警官が割って入る。ラスコーリニコフは持っていた金(彼はとても貧乏であり、この金はついさっき借りてきた生活費の一部である)を警官に渡してまで少女の保護を求める。しかし、去り際に突然、ラスコーリニコフの態度は豹変するのである。
このような、ともすると病的なものに見える行動は、彼が強固な信念(彼が具体的に「こうあるべき」というビジョンを提示することはないが、ルージンへの強烈な攻撃に見られるように、自分の信念に反するものへの強い拒否感は間違いなく読み取れる)を抱いて行動している(あるいは行動しようとしている)ものの、自らの行為の恐ろしさやそこからくる心理的な緊張が強力にブレーキをかけるためだろう。また、複数の信念がせめぎ合っているためだろう。私にとってはこのような一貫することのできない人間像、「この人どういう人?」と聞かれて簡単に答えることのできない人物こそがリアルなものに見える。
あまり根拠はないが、この激しい揺れ動きを自分なりに解釈してみる。ラスコーリニコフは金貸しの老婆とその妹を殺害して金品を奪うのだが、その背景には独自の犯罪哲学として有名な思想がある。これまで歴史を動かすような人類への貢献を行なってきたのは殺戮者であり、道徳的な規範や常識からかけ離れた人物であった。偉大なことをなすのであれば犠牲はやむを得ないし、良心の呵責に踏み潰されてはならない。これはラスコーリニコフの犯罪を正当化するために彼が作り出したものというより、彼はこの思想を先に持っていて、老婆の殺害はこの思想の実行だった。むしろ、この思想がラスコーリニコフの心にいつしか根を張って、もはや彼自身もこの思想に否応なしに動かされていると言える。つまり、ラスコーリニコフはおよそ常識的な道徳からすると容認できないが、偉大な信念を持っていて、道徳を踏み越える必要がある。しかし、大学にも通っていてインテリでもある彼は市民的な道徳とそれを遵守する高潔さも同時に備えていたのだと思われる。上記の両極端な言動はこのような内心の対立を明らかにしているのではないか。
気力の回復?
上記のように、この物語の中でラスコーリニコフの心理は忙しく、そして激しく動き回る。特に老婆を殺害した後には逮捕の恐怖や、自分に嫌疑が向いていないことへの安堵が繰り返され、さらには警察の事務官であるザミョートフを挑発したりもする。その中で、ラスコーリニコフは強烈に追い詰められていき、老婆から奪い取った金品を検分することもなく隠したり、自首をすれば救われるのではないかなどと考えるようになる。
転機となるのがマルメラードフの事故死と、彼の家族との交流だった。ラスコーリニコフが街を歩いていると、以前居酒屋で居合わせた元役人のマルメラードフが馬車に轢かれて重体となっている場面に出くわす。ラスコーリニコフは彼と知り合いであると名乗り出、彼を彼の家へと運ぶ手伝いをする。マルメラードフは家に運ばれて少しして息絶えてしまう。そこでラスコーリニコフはとても貧しく、子供をたくさん抱えてその世話に追われたマルメラードフの妻カテリーナ・イワーノヴナに出会う。
ラスコーリニコフは、マルメラードフが息絶えたあとでカテリーナ・イワーノヴナに葬儀費用として母親からもらったばかりの金を渡してしまう。このことからラスコーリニコフはマルメラードフの家族から感謝されることになるが、その帰り際に彼の心情に大きな変化が訪れる。
わあ、ラスコーリニコフ、元気になっちゃったよ…私は今回の読みで、上巻の中ではこの部分の変化が一番わからなかった。実はマルメラードフの事故に遭遇する直前にラスコーリニコフは女性の身投げに遭遇しており、その時の独り言から、彼が自殺を考えていることがわかる。それが事故後にはこのように決然と生きることを宣言している。今回の感想にうまく盛り込めなかったものとして、ヒロインのソーニャとの関係性がある。ソーニャはマルメラードフと前妻の間の子であり、今は家族のために売春婦となっている。ラスコーリニコフは彼女の存在を最初にマルメラードフから聞き、実際に彼女を見るのはこの時が初めてだった。このソーニャがラスコーリニコフの運命を大きく変えることになるのだけど、この二人の心の動きが本当に難しい。今下巻を読んでいるのだが、「お前ら、そんなに互いを重要な存在と認識するようになるきっかけあったか…?」という疑問がずっとある。これは読み通したときにもう一回考えるのと、場合によっては副読本が必要かな…
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