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憎むこと

われわれは憎むことを学ばないといけないのかもしれない。
憎しみのポーズをとった同調の快楽がこんなにも蔓延っているのだから。

本当に憎むことは、対象への憎しみを自身の言葉で表現する(できる)ことだ。そしてその表現は絶対に、自分の憎しみを完全に描写したものにはならない。われわれは憎しみと表現の間にある溝に向き合い続けなければいけない。

今日では誰かを憎んでいるふりをすることがいとも簡単にできる。

日本人が殺された、反日教育をやめろ、中国人を締め出せ、国交を断絶しろ、権威主義をやめろ。

声高に誰かの言葉で叫んでいる者たちに聞きたい。「あなたは本当に殺人者/反日教育/中国/中国共産党/習近平を憎んでいるのか」と。
彼ら/彼女らを憎んでいないのなら、自分の「憎しみ」を表現する言葉を探して苦しんでいるのではないのであれば、黙っていてほしい。あなたたちがやっているのはテキトーに鬱憤を晴らせる材料を探して騒ぎ立てるだけのことだ。酒でも飲んでカラオケで一晩歌ってくれればいい。

わたしはわたしで、憎まないといけない。
今日、通っている大学の学費値上げが発表された。わたしは今年度で大学を離れるので、(再入学でもしない限り)経済的な負担が今よりも大きくなるということはない。
とはいえ、この決定までの大学当局の横暴は流石に目に余った。学生との「対話」を掲げるも、そこで表明される痛切な懸念をまともに取り合わず、結論ありきで手続きを進めていったようにわたしには見える。
唯一の「対話」の場は時間を限ったオンラインのものであり、しかも「交渉」の場ではないと断り付きだ。最初からわれわれのことなんか眼中にない。値上げの合理的な説明も、われわれの痛みへの応答もないまま、今日の値上げ決定のアナウンスが行われた。

わたしはこの大学当局を憎まないといけない。
わたしは途中で反対運動へのオーディエンスとしての参加をやめた。運動を行う彼らのように、自分の言葉で憎しみを表現することができなかったから。当時は漠然と劣等感として現れていた辛さを、今ならそう表現したい。別に反対運動に再び顔を出せるようになればいいのではない。大学の建物を破壊すればいいのではない。胸中を憎しみとして表現することを試み続けないといけない。

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