村上春樹『アフターダーク』感想

項目ごとにぽつぽつ書いてます。

深夜のファミレスで

都内の繁華街での一夜の物語。意識したわけではないけど、この本のほとんどを池袋の深夜営業のガストと、池袋西口公園で読んだ。主人公マリは19歳で外国語大学で中国語を学ぶ処女の大学生。姉エリとの関係が疎遠であり、親ともそこまで親しいわけではない。エリはある日から病気でもないのに寝込み、マリはそれが遠因となって眠れなくなってしまい、深夜のファミレスで本を読んで時間を潰している。マリはエリの元クラスメイトの高橋を通じてちょっとした事件に首を突っ込み、そこで知り合った人々や高橋に姉のことを打ち明け、彼らから励ましを受ける。朝になって帰宅したマリは眠り続けるエリの布団に潜り込んで、エリを抱きしめる。十数年前、止まったエレベーターの中で姉がそうしてくれたように。

メッセージ?

とにかく、設定からも筋からも未熟な若者が他者と心を通じさせることを応援するような内容になっていると思う。ラストも保留をつけつつ希望に満ちたものとして読むことができるだろう。朧げに見え始めた自分の道へと歩み出そうとする若者と、すでに選び終わって決して楽ではない道を進んでいる大人。さまざまな視点からその「分岐点」が回顧されたり予見されたりしている。マリがエリとの関係に悩み、その末にエリを抱きしめるのは、過ぎてしまった分岐でもその結果を修正することが不可能ではないというメッセージだろう。ちなみにこの本を読むのは二度目であり、前回読んでいたときの切符が挟まっている。2018年の3月、井の頭線の駒場東大前から130円の切符。あの時僕はまだ19歳だった。僕にもマリや高橋のような出会いがあれば今はもっと筋の通った人生を送っていたのだろうか。

高橋の感覚と決断

もう一人の主人公とも言える高橋は打ち込んでいたトロンボーンを手放して法律家の道を歩み始めようとする。そのきっかけとなったのが、課題のために傍聴した殺人事件の裁判で受けた衝撃だ。国家によって個人が裁かれ、処刑されるということ。

「僕が言いたいのは、たぶんこういうことだ。一人の人間が、たとえどのような人間であれ、巨大なタコのような動物にからめとられ、暗闇の中に吸い込まれていく。どんな理屈をつけたところで、それはやりきれない光景なんだ」(中略)「とにかくそに日を境にして、こう考えるようになった。ひとつ法律をまじめに勉強してみようって。そこには何か、僕の探し求めるべきものがあるのかもしれない。法律を勉強するのは、音楽をやるほど楽しくないかもしれないけど、しょうがない、それが人生だ。それが大人になるということだ」

p.145

この感覚もはかなり賛同できる。何となく最近、自分の感じる感覚の中で、国家による個人への暴力を見聞きした時に感じるものがなんのとなく他の感覚と手触りが違うように思う。はっきりと怒りでも悲しみでも恐怖でもなく、あえて言えば無力感。願いは聞き入れられず、人は人でなくなり、「国家」とその下部組織の存続が至上命題になるような場面。しかし、高橋が法律家を目指すという選択は、殊更その暴力の仕組みに接近するものであり、「あっち側」(裁かれる側)に行かないための咄嗟の避難にも見える。彼は、こっちとあっちの境界線が不分明になる感覚を体験したと言っているが、その実その境界線をはっきりと強固なものにして自分を安全地帯に囲い込もうとしているように見える。

文体

あまりうまく説明できないが、雰囲気というか文体が他の村上作品とかなり異なっているように思う。登場人物の会話がテンポよく描かれ、会話の内容も村上春樹の書く地の文をセリフにしたような比喩の多いものではなく、現実的なものである。「雰囲気」と呼べるものの特異性を醸し出しているものとしては、「すかいらーく」「セブンイレブン」、タカナシの牛乳などの何の変哲もない固有名詞が出てくるところだろうか。独特の比喩とか言い回しが少ないこともあって、少し最近の小説を読んでいる気分になる。

舞台

また、この作品では世界がとても狭い。マリや高橋が白川やバイクの男と直接関係しないもののすれ違ったりする。他の作品では、主人公を起点にして複数の女性が観念的に関係するという趣がある(こういう言い方が適切なのかはわからない。要は、以前の恋人と今の配偶者の間に何か共通点のようなものが見出されると、その共通点をきっかけに主人公はその二人を関連付ける。そうしたことで物語の現実の中でも二人は関係を持ってしまうということ)のに対して、『アフターダーク』では、特記される人物が最初から共通の物語空間のようなものに閉じ込められていて、そのため場を共有している感じがある。この世界にいる以上どうしても顔を合わせないわけにはいかないようだ。


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