僕の思う『罪と罰』のココがすごい

ここでは僕なりの『罪と罰』のここがすごいを書いていきます。今度知り合いと『罪と罰』台本を読むので、それに向けて、「なぜ『罪と罰』を演劇でやりたいのか」を紹介したものです。

単純なモデルでありながら十分に複雑な人物を生み出している

ドストエフスキーは『白痴』の第四章の冒頭において唐突に作品論を展開します。主張の要旨はこうです。小説の使命とは、現実には存在しないかもしれないが、時代の人間性を反映した人間をモデルとして提示することである。僕はこの箇所を読んだときに我が意を得たりという感じがしました。まさに、『罪と罰』の各登場人物をそれぞれなんらかの情念の具現化と捉えることができるからです。この解釈はドストエフスキーの本意から遠くはなかったのでしょう。

情念の具現化ということは、登場人物は人間としてはあまりに単純に映るということです。ラスコーリニコフは若い誇りと使命感、ラズミーヒンは一途な愛情、ソーニャは慈悲がそれぞれ形をとったような存在で、彼らの行動はこれで説明がつくように思います。そして、これらの人物が十分に存在感を持って登場していることから、現実離れしているもののフィクションの人物として魅力的です(この「存在感」がどこから来るものなのかはまだうまく説明できません。一つには、作中でついに姿を見せることのない人物を含めた人間関係が語られていて、それが厚みを与えているということでしょうか)。「ラズミーヒンはどんな人だい?」という問題に対して「一途な愛情を注ぐことのできる人物です」と答えることができますが、同時に「一途な愛情を注ぐことのできる人物とはどんな人だい?」という質問には「『罪と罰』のラズミーヒン」と答えたくなります。

そして、矛盾するようですが、彼らのうちの幾分かの人々は十分な複雑さをも備えています。特に、ラスコーリニコフはそうです。彼はマルメラードフの「救済思想」を真剣に受け取ることなく嗤う無神論者でありながら、犯行の中止を神に求めたり、ポルフィーリーに神を信じていると述べたりします。また、以下の引用の場面では、卑劣な結婚に反対する若い義憤と自分の無能力の自覚、そして解決策は現状を一発でひっくり返すもの(例えば英雄的殺人)でなくてはいけないという倒錯した焦りが見えます。

《おれはおまえの犠牲なんかいらないよ、ドゥーネチカ、いやですよ、母さん!俺が生きている間は、そんなことはさせぬ、させないよ、させるものか!ことわる!》
彼は不意にはっとして、足をとめた。
《させるものか?じゃ、それをさせないために、おまえはいったい何をしようというのだ?ことわる?どんな権利があって?そういう権利をもつために、おまえのほうから母さんと妹に何を約束してやれるのだ?》

(工藤精一郎訳 上巻p. 95)

この物語でもっとも過剰な単純さを持っている彼は同じように複雑な人物でもあるのです。これは、ほとんどの場合著者の目線がラスコーリニコフの目線であるというこの小説の形式的側面が関わっているかもしれません。常にこの小説は三人称で「ラスコーリニコフは〜〜と思った」と描かれますが、その実ほとんどラスコーリニコフがいる場面だけが描かれます。彼が居合わせないところで起こることはほとんど描かれません(直ぐに思い浮かぶ例外はルージンとレベジャードニコフとの会話、エピローグくらいでしょうか)。このため、必然的に語りの中心はラスコーリニコフになり、彼の行動や心理の描写がもっともリッチなものになります。

では内面の複雑さを描かれる機会が少ない他のキャラクターは薄いのかというとそうではありません。この物語では多くの人物が内面を過剰に暴露するような語りをします。そしてその中で、直接は登場することのない周囲の人物についても語られるのです。以下は物語の冒頭で酒場に寄ったラスコーリニコフがマルメラードフから身の上話を聞かされる場面からの抜粋です。

心がきれいなだけで、特殊な才能がなけりゃ、はたらきづめにはたらいたところで、日に十五コペイカもかせげませんよ!いいですが、五等官のクロプシュトーク、イワン・イワーノヴィチは、−ご存じですかな?−あの娘にワイシャツを六枚も仕立てさせておきながら、いまだに金を払わないどころか、襟が寸法に合わないとか、まがっているとか難くせをつけて、地だんだふんで怒りつけ、聞くにたえないような屈辱の言葉をあびせかけて、追いかえしたんですよ。

同上p. 36

「イワン・アファナーシエヴィチ閣下、ご存じかな?……知らない?おやおや、あんな神のようなりっぱな方を知らんとは!あの方は–ものやわらかなお方で……聖像のまえのろうそくのように、やわらかにとけなさって!……わたしの話をすっかりお聞きになると、閣下は涙ぐまれて、《なあ、マルメラードフ君、君はすでにわしの期待を裏切った男だが、……もう一度わしの個人の責任において採用してやろう、いいな、これを忘れちゃいかんぞ、よし帰りたまえ!》こうおっしゃってくださったんですよ。わたしは、心の中で、閣下の足のちりをなめましたよ、だって閣下は高官で、新しい政治思想の持ち主ですもの、ほんとにそんなことしようと思っても許すはずがありませんよ。家へとんでかえって、また官職についたぞ、月給がもらえるぞ、と言うと、ああ、そのときの喜びようはどんなだったか…」

同上p. 40

ここで話に出てくる「五等官のクロプシュトーク、イワン・イワーノヴィチ」と「イワン・アファナーシエヴィチ閣下」は前にも後にも登場することはありません(「ご存じかな?」と言われたところで知りようがない)。ここでマルメラードフが自分の置かれた状況や心境を少しでもよくラスコーリニコフや酒場の人たちにわかってほしいがために一切のディテールまで語ろうとして、彼らを登場させたのです。そして、彼らがどんな人物なのかということも語っています。ここまでくると、あまり喋ったことのない同級生や同期の家に遊びに行って、その人が普段そんな家族や近所に囲まれて生きているのかを目の当たりにしたときに、その人が急に立体的な人間に見えてくるような感覚に襲われることになります。多くの人物の名前が立て続けに出てくるのは読者にとってストレスではありますが、これによって人物に複雑なリアリティが担保されもします。

ここまでは物語全体の印象のようなものを記してきました。ここからは、物語の具体的な内容に触れていきたいと思います。

運命

この物語は人間が運命に飲み込まれていく様を鮮やかに描いていると思います。よく、『罪と罰』は独自の英雄思想を肥大化させた青年が実際に殺人を犯す物語だと語られますが、それは正確ではないと思います。ラスコーリニコフは確かに自らの論文の中でこの英雄思想を語ってはいますが、それは完全に彼独自のものだとは言えません。この台本ではカットされていますが、もともと「役立たず」の富者を殺害してその財産を偉業や多数の者の福祉に役立てるという思想を彼が抱き始めた時に、彼は大学生二人がこの思想について話しているのを聞きます。この偶然から、彼は自分が思想の実行者であるという運命に囚われてしまいます。彼が英雄的殺人に駆り立てられたのは、彼の意志というより運命と呼べるものによるところが大きいのです。
殺人までにはもう一つの偶然がありました。彼は殺害を計画してそれを意識しつつも、実行できるのかという疑いを絶えず感じ、「実行しない」という決心を喜んだりもしています。

「いやおれは堪えられぬ、堪えられぬ!たとえこのすべての計算には一点の疑いさえないとしても、この一月の間に決められたことがみな、白日のように明らかで、算術のように正しいとしても、だめだ。ああ!おれはやっぱり思いきれぬ!だっておれには堪えられぬ、堪えられぬのだ!……それなのにどうして、どうしていま頃まで……」

 彼は立ち上がると、ここへ来たのが不思議そうに、びっくりしてあたりを見まわした。そしてT橋のほうへ歩きだした。顔は蒼白で、目は熱っぽくひかり、身体中に疲労があったが、彼は急に呼吸が楽になったような気がした。彼は、こんなに長い間重くのしかかっていたあの恐ろしい重荷を、もうはらいのけてしまったような気がして、心が一時に軽くなり、安らかになった。《神よ!》と彼は祈った。《わたしに進むべき道を示してください、わたしはこの呪われた……わたしの空想をたちきります!》

 橋をわたりながら、彼はおだやかな目でしずかにネワ河と、真っ赤な太陽の明るい夕映えを見やった。彼は弱っていたけれど、疲れを感じもしなかった。まるでまるで一月の間彼の心にかぶさっていたものが、一時にとれてしまったようだ。自由、自由!彼はいまあの諸々の魔力から、妖術から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!

同上p. 127-128

しかし、彼は結局逃れることができませんでした。ほとんど殺人を諦めかけてたときに通りかかった広場で偶然彼はアリョーナが翌日の晩に一人で家にいることを知ってしまいます。このことは彼に審判のように降りかかります。この情報を知った彼は、老婆を殺害しないわけにはいかなくなったのです。台本では簡単にしか書かれていませんが、老婆の殺害の場面ではラスコーリニコフはほとんど機械のように無心で斧を振るっています。

このように、彼の犯行は彼の意志だけによっては到底成し得ないものであり、偶然の連なる運命によるものといえます。運命に巻き込まれていく人間の描写はさまざまにありますが、この作品のそれはとても鮮やかなものだと思います。

現実からの遊離と復活

この物語のオチはラスコーリニコフとソーニャの「復活」です。となると、「何からの」復活なのかということが問題になります。僕は「現実からの遊離」あるいは「観念の地獄」からの復活だと考えています。

「現実」とは、われわれの生きているこの世界、そしてその特有の論理です。「世の中そんなもの」という言葉で言い当てられるものです。

この世の中では必ずしも正義が勝つわけではないです。世界トップ28人の富豪の財産は最も貧しい38億人の総資産に等しいようです。この事実に象徴されるような不正義、理不尽が罷り通っています。かといって、その28人を殺してその金で38億人を救済するのかと問われたら、それは「現実味のない」ことでしょう。そしてこの時に富豪の殺害を思い止まらせるのは、倫理観や殺されるものへの同情ではないと思います。「そんな話は馬鹿げている」という感覚です。

別の例を出すと、われわれがこの世に生まれるのは究極的には理由のないことだし、理不尽なことだと思います。だからと言って、自分の生を放棄することは多くの人はしません。「何のために生きるのか」という問いに納得のいく回答をした上で生き続けるのではなく、「そういうものだ」と割り切って、生き続けているのです。

この、理屈では、つまり観念の世界では正しいことが実現されていないが、そのことを黙認して成り立っているのが「現実」です。観念の世界での正義が実現されるのであれば、明日にでもあらゆる国家は転覆され、裕福なものたちは掠奪され、あらゆる私有財産は共有のものになるでしょう。逆に、現実で生きていくためには、そうならないことに怒り狂うことなく「地に足をつけて」歩いていく必要があります。

ラスコーリニコフはこの現実に我慢がならず、子どもじみた正義の思想を笑い飛ばすことができなかったことで、現実から離れてしまったのです。そして、いわば観念的な(頭の中だけにある)正義に妥協のできなくなったラスコーリニコフは常に正義によって自分の生を正当化しなくてはいけなくなります。彼の正義を実現するには、金貸しの老婆を殺して強奪しなくてはいけない。上記の運命が手伝って彼はこの犯行を成し遂げますが、仮に運命が彼に殺人を許さなかったなら、彼はこの正義への衝動に苦しめ続けられたことでしょう。

そして、二人を殺害したのちに激しい体調不良や逮捕への恐怖に見舞われる中で彼は正義を実現する英雄として自分のことを認識できなくなり、彼は自分を正当化することができなくなり、自殺に駆り立てられることになります。現実離れした衝動にラスコーリニコフは悩ませられ続けるのです。この物語を読んでラスコーリニコフを未熟だと思うとき、われわれは彼の思想を論理的に否定するのではなく、彼が捉え損ねた現実をはっきりとは言い表せないにしても内在化して生きているということになります。

このように現実離れした衝動の間でにっちもさっちも行かなくなったラスコーリニコフにもたらされるのが、ソーニャの愛です。ソーニャの愛はラスコーリニコフのみならず、彼女自身をも救うものであり、「二人の復活」が遂げられます。

ただし、この「復活」は強烈な信仰を伴うものであり、現実への回帰ではありません。

清水正という日本のドストエフスキー研究家によると、「復活」が信仰によるものであり生活への回帰でないのは、作者特有の世界観によるものです。『罪と罰』には無神論者が二人います。ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフです。そしてこの二人は共に破滅していきますが、ラスコーリニコフは復活し、スヴィドリガイロフはピストル自殺を遂げます。この二人の結末を分つのは、信仰に復帰したか否かです。この作品世界においては、信仰から離れるとは破滅につながり、そこから復活するのは(強烈な)信仰にのみ可能なことなのです。ここに、大きな問題があると考えます。もともとラスコーリニコフの破滅は、現実からの遊離によるものでしたが、彼の復活は現実への復帰ではありません。進行無くしてからの復活はなかったのです。信仰からもとより縁遠いわれわれにとって、このラストはやや物足りないものかもしれません。特に、この物語になんらかの人生のヒントのようなものを求める人にはそうでしょう。

現実に復帰するという方向は実はポルフィーリーが提示しています。彼は「生活」「空気」という言葉で述べていますが、十分に詳しく描かれているとは思いません。今回はこれを深追いすることはしないで、このような問題提起の形で終わっておきたいと思います。すなわち、「ポルフィーリーの『生活』とはなんなのか、そこに留まったり、一度そこを離れてしまった人がそこに戻るにはどうすればいいのか?」という問題提起です。

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