ニーチェ『悲劇の誕生』訳と読解 #3
前回の更新からだいぶ期間が空いてしまいました。今回からは私の解釈の分量にあまり拘らないで投稿したいと思います。というのも、これまで各文にそこそこ丁寧な解説をつけようと思っていたのですが、それをすると結構疲れてしまって訳のスピードが落ち、本滅転倒になってしまうからです。
そもそも、訳文を載せているのでいちいち全部言い換えることも不必要でしょう。今後は、文を読んだだけでは意味の分かりにくいところについての自分の解釈を載せたり、語句の説明を中心に付け足そうと思います。ある程度速度を重視して読んだ方が振り返って理解が進むということもあるでしょうし。
第一節
第四段落
この二文でいくつかの概念が「アポロン」という神のもとに結び付けられています。つまり「夢を経験すること」、「造形的な力」、「予言」、「光」、「内的な幻想の世界の美しい仮象」です。それぞれの結びつきに注意しながら読み進めましょう。
ここではアポロンに結び付けられた概念が拡張されます。前の文までで「予言」と「造形的な力」(=造形芸術)がアポロンに帰されましたが、この文ではそれらがアナロジカルに「完全性」と治癒的な自然の「深い意識」と結び付けられます。
「アナロジー」がどういう理屈なのか気になるところなので、「予言」と「完全性」のペアについて自分なりに補足しておきます。アナロジーを、二つの事柄の間に共通の一つ以上の概念を見出しその二つの事柄を関係のあるものとみなすこと、と解釈します。だとすると、「予言」と「完全性」に共通する概念が何かということが問題になります。私はそれが「真実」ではないかと思います。「予言」と訳したWahrsagenは「真なることWharを言うsagen」という意味でも読めます。
なお、もともとアポロンに帰されていた芸術は、それによって「生は可能なものになり、生きるに値するものになる」ようなものです。夢の中で芸術家は美しい仮象から生のなんたるかや生を生き抜くことを学び、仮象を喜びを持って眺める、ということがすでに述べられており(S.27, Z.1)、生の肯定というテーマが見えます。
アポロンに表象されるところの夢、完全性のための条件として、「淡い線」、すなわち限度が述べられています。これが具体的には何を指しているのか分かりませんが、夢の表象がこの限度を超えてしまうとそれは「不確かな現実」に過ぎないものとしてわれわれに認識されてしまって、夢の美しさを享受できなくなるということでしょう。
以下では、アポロン的なものがショーペンハウアーの学説に照らし合わせて読まれています。
ショーペンハウアーの文章についてはできれば後ほど文脈などを追加しますが、とにかくここで重要なのは、「固体化の原理」、つまり私やわれわれが日常的に一つのものと見る事物が他のものから独立して存在しているという原理がわれわれに安心を与えているということです。確かに私は私でありあなたはあなたであるという認識が常識であることによってわれわれは日常を過ごせています。実のところ私とあなたははっきり分けることのできないものであって、二人三脚のような運命共同体なのだということになったら、私はそれまでのように私の自由意志で動くことはできなくなるでしょう。
このような固体化の原理によって生み出される安心感を壮大に表現したものがアポロンであると述べられます。造形芸術に代表されるアポロン的芸術は、輪郭のはっきりしたものであり、まさに固体化の原理を具現化したものだと言えるでしょう。
第五段落
固体化の原理がわれわれにもたらす安心感を述べることで、逆説的にショーペンハウアーは恐怖を表現していると言われます。この文ではその恐怖の内容はショーペンハウアー哲学の範囲にとどまっているので深くは言及しませんが、「根拠の原理」とはショーペンハウアーの考えでは、現象と物自体の区別に続いてあらゆる原理や法則に優先して世界を成り立たせている根源的なものです。それが「例外を被る」ことはそれまで通用してきた認識が機能不全に陥る、恐るべき事態だといえます。
ここでは議論の舞台設定がニーチェのものに移されます。「恐怖」の向けられる対象、つまり固体化の原理の破綻した世界は、ディオニュソス的なものと言われます。たしかにわれわれは恐怖を持ってディオニュソス的なものを目にするのだが、同時に「喜色満点の恍惚」をもそのときに感じるのです。ここで冒頭のアポロン対デュオニュソスの対立が再び現れます(「陶酔」について触れられているのは、この節の冒頭でアポロン=夢、ディオニュソス=陶酔という図式を提示したのを読者に思い出させるためでしょう)。この後の文は、ディオニュソス的な陶酔に包まれた人間に関する実例が取り上げられます。
ディオニュソス的なものの本質に触れた人間が感じる恍惚が具体的にどんなものなのかが示されます。それは酒や麻薬の摂取、「春の接近」が人間に引き起こすものがそれです。その中で起こるのは「完全な自己忘却」であり、私という個人が独立してこの世界に存在しているという感覚がなくなっていき、他人や自然と渾然一体となっている感覚でしょう。
前文の後半でディオニュソス的な恍惚の実例として「聖ヨハン祭」や「バッコスのコーラス」が挙げられていました。このような過去の風習はともすると後世の人間によって異常な未開の文化とみなされ、乗り越えられるべきものと考えられたりもします。ニーチェはそのような見方に注意を促しています。文明化され、啓蒙された現代人のみが果たして「健康」と言えるのかどうか、恍惚となり荒れ狂う人間たちの方が「健康」なのではないか、と。
第六段落
以下の段落は正直注釈をつけるのが難しいです。のちに調査の上で解説がつけられることを期待してここでは訳のみを掲示します。すみません。とはいえ、ディオニュソス的な世界がどのようなものなのかを描写した内容になっており、一読すれば雰囲気を掴むのは難しくないと思います。
最後が駆け足になってしまいましたが、今回はここまでにします。次回は第二節の前半です。
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