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ニーチェ『悲劇の誕生』訳と読解 #3

前回の更新からだいぶ期間が空いてしまいました。今回からは私の解釈の分量にあまり拘らないで投稿したいと思います。というのも、これまで各文にそこそこ丁寧な解説をつけようと思っていたのですが、それをすると結構疲れてしまって訳のスピードが落ち、本滅転倒になってしまうからです。

そもそも、訳文を載せているのでいちいち全部言い換えることも不必要でしょう。今後は、文を読んだだけでは意味の分かりにくいところについての自分の解釈を載せたり、語句の説明を中心に付け足そうと思います。ある程度速度を重視して読んだ方が振り返って理解が進むということもあるでしょうし。

第一節

第四段落

夢を経験することが喜ばしい必然であることは、ギリシア人たちによって同様に彼らのアポロンのうちに描き出された。アポロンは、あらゆる造形的な力の神であり、同時に予言の神である。アポロンは、その語根が「光輝くもの」であり、光の神なのである。アポロンはまた、内的な幻想の世界の美しい仮象を支配するのである。

S.27, Z.24-29

この二文でいくつかの概念が「アポロン」という神のもとに結び付けられています。つまり「夢を経験すること」、「造形的な力」、「予言」、「光」、「内的な幻想の世界の美しい仮象」です。それぞれの結びつきに注意しながら読み進めましょう。

より高次の真実、不完全にのみ理解される日常性とは反対のこのような状態の完全性、そして加えて睡眠と夢の中で癒し〔生きることを〕手助けをする自然についての深い意識は同時に、予言的な能力やとりわけ諸芸術の象徴的なアナロジーなのであるが、この芸術を通して生は可能なものになり、生きるに値するものになるのである。

KSA1, S.27, Z.29-S.30, Z.1

ここではアポロンに結び付けられた概念が拡張されます。前の文までで「予言」と「造形的な力」(=造形芸術)がアポロンに帰されましたが、この文ではそれらがアナロジカルに「完全性」と治癒的な自然の「深い意識」と結び付けられます。
「アナロジー」がどういう理屈なのか気になるところなので、「予言」と「完全性」のペアについて自分なりに補足しておきます。アナロジーを、二つの事柄の間に共通の一つ以上の概念を見出しその二つの事柄を関係のあるものとみなすこと、と解釈します。だとすると、「予言」と「完全性」に共通する概念が何かということが問題になります。私はそれが「真実」ではないかと思います。「予言」と訳したWahrsagenは「真なることWharを言うsagen」という意味でも読めます。

なお、もともとアポロンに帰されていた芸術は、それによって「生は可能なものになり、生きるに値するものになる」ようなものです。夢の中で芸術家は美しい仮象から生のなんたるかや生を生き抜くことを学び、仮象を喜びを持って眺める、ということがすでに述べられており(S.27, Z.1)、生の肯定というテーマが見えます。

一方でまた、病的な印象を与えないために夢の形象が踏み越えてはならず、さもないと仮象が不確かな現実としてわれわれを裏切ることになってしまうあの淡い線はアポロンの形象においては欠いてはならない。アポロンの形象とは、かの程よい制限、無秩序な活動からの自由、形象の神のかの叡智に満ちた平安なのである。彼の目は、その起源にふさわしく「太陽のよう」であり、それが腹立たしく不機嫌に眺めやる時でも、美しい仮象の荘厳さがそこにはあるのだ。

S.28, Z.1-9

アポロンに表象されるところの夢、完全性のための条件として、「淡い線」、すなわち限度が述べられています。これが具体的には何を指しているのか分かりませんが、夢の表象がこの限度を超えてしまうとそれは「不確かな現実」に過ぎないものとしてわれわれに認識されてしまって、夢の美しさを享受できなくなるということでしょう。

以下では、アポロン的なものがショーペンハウアーの学説に照らし合わせて読まれています。

『意志と表象としての世界』第一巻416ページにおいて〔次のように述べられている〕。「四方八方から際限なく、波の山がそりたち沈む荒海のうえにか弱い船を頼りに、船乗りがいるように、苦痛の世界の真っ只中で一人の人間は「固体化の原理」に支えられ、それをあてにして安らっているのである」。むしろアポロンに関しては次のように言われて良いだろう。つまり、アポロンにおいてかの原理への不動の信頼と、この原理に囚われたものの安らかに構えていることが最も崇高な表現を有するということが。また、まさにアポロンは固体化の原理の壮大な神的像としてしるしづけられてもよいのであるが、この神的像の身振りや眼差しから「仮象」の全き快と知恵が美を挙げてわれわれに語りかけてくるのである。

S.28, Z.11-23

ショーペンハウアーの文章についてはできれば後ほど文脈などを追加しますが、とにかくここで重要なのは、「固体化の原理」、つまり私やわれわれが日常的に一つのものと見る事物が他のものから独立して存在しているという原理がわれわれに安心を与えているということです。確かに私は私でありあなたはあなたであるという認識が常識であることによってわれわれは日常を過ごせています。実のところ私とあなたははっきり分けることのできないものであって、二人三脚のような運命共同体なのだということになったら、私はそれまでのように私の自由意志で動くことはできなくなるでしょう。
このような固体化の原理によって生み出される安心感を壮大に表現したものがアポロンであると述べられます。造形芸術に代表されるアポロン的芸術は、輪郭のはっきりしたものであり、まさに固体化の原理を具現化したものだと言えるでしょう。

第五段落

上記の文においてショーペンハウアーはわれわれに対してとてつもない恐怖を叙述している。その恐怖は、現象の認識形式に突然自信をなくしたときにその人間を捕らえる。認識形式に自信をなくすことは、根拠の原理のいづれか一つのものが例外を被るように見えることによって起こるのである。

S. 28, Z.24-28 

固体化の原理がわれわれにもたらす安心感を述べることで、逆説的にショーペンハウアーは恐怖を表現していると言われます。この文ではその恐怖の内容はショーペンハウアー哲学の範囲にとどまっているので深くは言及しませんが、「根拠の原理」とはショーペンハウアーの考えでは、現象と物自体の区別に続いてあらゆる原理や法則に優先して世界を成り立たせている根源的なものです。それが「例外を被る」ことはそれまで通用してきた認識が機能不全に陥る、恐るべき事態だといえます。

この恐怖に加えて、固体化の原理の破綻に際して人間の、いや自然の最も内的な根底から湧き上がる喜色満天の恍惚をわれわれが持つときに、われわれはディオニュソス的なものの本質へと一瞥をくれるのであるが、このディオニュソス的なものとは陶酔のアナロジーを通じてわれわれに最も身近にもたらされるものである。

S. 28-Z.34

ここでは議論の舞台設定がニーチェのものに移されます。「恐怖」の向けられる対象、つまり固体化の原理の破綻した世界は、ディオニュソス的なものと言われます。たしかにわれわれは恐怖を持ってディオニュソス的なものを目にするのだが、同時に「喜色満点の恍惚」をもそのときに感じるのです。ここで冒頭のアポロン対デュオニュソスの対立が再び現れます(「陶酔」について触れられているのは、この節の冒頭でアポロン=夢、ディオニュソス=陶酔という図式を提示したのを読者に思い出させるためでしょう)。この後の文は、ディオニュソス的な陶酔に包まれた人間に関する実例が取り上げられます。

麻酔性の飲料の影響によって、この儚いものに関してあらゆる原初の人間や民族が神の讃歌の中で述べていたり、あるいは全自然を快感で満たす春の接近が力強く、ディオニュソス的な動きを呼び起こすのである。この高まりの中で主観的なものは完全な自己忘却の中へとだんだんと消滅していくのだ。中世のドイツにおいても同様のディオニュソス的力のもとであふれんばかりの群衆が、歌い踊りながら広場から広場へと押し寄せた。聖ヨハン祭や聖ファイト祭においてわれわれはギリシアと同じようなバッコスのコーラスを再び見出すのである。このコーラスはその前史を小アジアに持ち、のちにバビロンや放縦のサカイエンへと至るのである。

S.28, Z.34-S.29, Z.10

ディオニュソス的なものの本質に触れた人間が感じる恍惚が具体的にどんなものなのかが示されます。それは酒や麻薬の摂取、「春の接近」が人間に引き起こすものがそれです。その中で起こるのは「完全な自己忘却」であり、私という個人が独立してこの世界に存在しているという感覚がなくなっていき、他人や自然と渾然一体となっている感覚でしょう。

経験の不足や感覚の鈍さのために、自らの健康の感情をもって、これらの現象が「民衆の病」であるかのように嘲笑的にあるいは同情的に、これらの現象から目を背ける人間たちがいる。この哀れな者どもはディオニュソスの狂信者たちの熱烈な生が彼らのところを騒がしく通り過ぎてゆくときに、哀れなこのものたちのまさに「健康」がどれほど死体の如く気味悪く見えるのかということを、当然ながら全く予感しないのである。

S.29, Z.11-16

前文の後半でディオニュソス的な恍惚の実例として「聖ヨハン祭」や「バッコスのコーラス」が挙げられていました。このような過去の風習はともすると後世の人間によって異常な未開の文化とみなされ、乗り越えられるべきものと考えられたりもします。ニーチェはそのような見方に注意を促しています。文明化され、啓蒙された現代人のみが果たして「健康」と言えるのかどうか、恍惚となり荒れ狂う人間たちの方が「健康」なのではないか、と。

第六段落

以下の段落は正直注釈をつけるのが難しいです。のちに調査の上で解説がつけられることを期待してここでは訳のみを掲示します。すみません。とはいえ、ディオニュソス的な世界がどのようなものなのかを描写した内容になっており、一読すれば雰囲気を掴むのは難しくないと思います。

ディオニュソス的なものの魔力もとでは人間と人間の間の絆が再び結ばれるのみではない。疎隔になり、敵対的なものとされ、屈服させられた自然もまた、その失われた息子である人間たちとの和解の祭りを祝うのである。大地は自ら贈り物を与えようとし、岩山や砂漠の猛獣たちも平和的に振る舞うのである。ディオニュソスの車は花や花輪をいっぱいに振りかけられ、その車のくびきのもとでヒョウやトラも悠然と歩くのだ。ベートーベンの「歓喜」の歌を一枚の絵画に変化させよ、そして数多の人々が恐れ慄いて塵に身を埋めるときに、自身の構想力(想像力)に置き去りにされることなく着いていくがよい。そうすればディオニュソス的なものに近づくことができる。今や奴隷は自由人なのであり、困窮や恣意、「厚かましい流行」が人間たちの間に頑強に打ち立てた、硬直した敵意のある区分けは全て破壊されるのである。今や、世界調和の福音のもとで各人はその隣人と統一され、和解し、溶け合うことを感じるのみならず、一つになったと感じる。これはあたかも、マーヤーのベールが引き裂かれ、ただの断片になって秘密に満ちた根源一者の前で舞い散るかのようである。歌い踊りながら人間はより高次の連帯の構成員として自らを示す。人間は歩くことと話すことを忘れ、半ば空中で舞い踊ろうとしている。魔術が人の身振りから発せられる。今や動物は語り、大地が乳や蜜を与えるかのように、人から何か超自然的なものが響きもするのである。彼は自ら神を感じ、夢の中で神々が動き回るのを見たかのように恍惚として高められた状態で今や動き回るのである。人間はもはや芸術家なのではなく、芸術作品となったのである。全自然の芸術力は根源一者の最も高い喜びの充足に向けてここで降り注ぐ陶酔のもとに現れるのである。最も高貴な粘土、最も貴重な大理石、すなわち人間がここではこねられ、削られるのである。そして、ディオニュソス的世界芸術家の鑿へとエウレシウスの神秘的な声が響くのである。「汝らはひれ伏すか、百万の者どもよ?汝は創造者を予感するか、世界よ?」

S.29, Z.18-S.30, Z.16

最後が駆け足になってしまいましたが、今回はここまでにします。次回は第二節の前半です。

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