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ニーチェ『悲劇の誕生』訳と読解 #2

 こんにちは。『悲劇の誕生』の訳と読解の第二回をやっていきましょう。今回は本編第一節の第二第三段落です。写真は一昨年の夏に撮ったやつです。河川敷のヘリポートですが、どことなくフリー素材感がありますね。妙に匿名性が高くなってしまいました。

 そういえば最近はOne noteを使っているのですが、noteに直接コピペすると文字情報として認識してくれなくてMacのメモを挟んでいます。One noteは(大学でOffice 365をもらったから?)無料で使えてカテゴリ区分が適当でいいなと思っているのですが、フォントが多すぎたり行間が時々致命的に変になったりするので極端な一長一短という感じです。全体的に調整可能なところが多いせいで雑に使おうとすると逆に手間がかかる印象があります。勉強に使うアプリに関しても今度また考えてみようと思います(千葉雅也や読書猿らの対談で『ライティングの哲学』という本があって、その中で執筆に使うアプリの話を延々としていてなかなか面白かったです)。

 なお、今回から引用箇所の下に箇所を明記することにします。頭から訳しているので書かなくてもいいかなと思ったのですが、一応。略称を使いますが、GT1はDie Geburt der Tragödie(『悲劇の誕生』)の第一節の略、KSA1は“Kritische Studienausgabe“, Nietzsche, Sämtliche Werke(学生向け批判的ニーチェ全集)の第1巻、S.26はSeite 26(26ページ)、Z.3-7はZeile 3-7(3から7行目)の略です。

第一節

第二段落

この両衝動が我々に近しいものとなるように、差し当たり両衝動を陶酔という分離した芸術世界として思い浮かべようではないか。この〔芸術世界という〕生理学的現象の間においては、アポロン的なものとディオニュソス的なものの間のように、相応する対立が認められるのである。

GT1, KSA1, S.26, Z.3-7

 ここでの「両衝動」とは第一段落で触れられていたアポロン的なものとディオニュソス的なもののことですね。第一段落の議論では神話的なストーリーの中で直観的に神のあり方を捉えるということが言われていました。しかし、それだけではあまりにもとっつきにくい話になってしまいます。ニーチェはあくまで古代ギリシア人がアポロンとディオニュソスをどう捉えているのかということを手掛かりにアッティカ悲劇をの精神を解明しようとしていましたが、我々は(19世紀の人間も)その直観を単純に共有することはできません。
 そこで、ここではアポロン的なものを「夢」に、ディオニュソス的なものを「陶酔」に置き換えて考えてみようと言っています。この二つは「分離した芸術世界」と言われていて、単なる我々の夢とか陶酔というだけではなく芸術経験だと考えられます。とはいえ「生理学的現象」とはっきり言われているところから、あまり美学的なもの、精神的なものと解する必要はなく、我々の寝ているときに見る夢とかお酒を飲んだり祭りで叫んでいるときに感じる陶酔に引きつけて考えてもよさそうです。
 なお、「生理学的現象」という言葉はニーチェ解釈の中で揉めるポイントかもしれません。というのも、ニーチェは主に「中期」(1870年代後半から81年くらい)以降、精神的な現象を生理学的な現象と読み替える手法を取ります。例えば、罪の意識を感じて精神的に追い詰められることは実は消化不良に過ぎないんだと言ったりします。一応ニーチェはこの時期に自然科学の本をたくさん研究していたようです。この辺はどう解釈するのかそもそも大問題なので僕もわからないことだらけです。詳しく知りたい人は例えばブライアン・ライター『ニーチェの道徳哲学と自然主義』(大戸雄馬訳, 春秋社, 2022年)なんかを読んでみるといいかもしれません(僕はまだ二章くらいまでしか読んでませんが)。それで、今回の箇所で「生理学的」という言葉に注目したのは、『悲劇の誕生』が「初期」の作品であり、「中期」のような自然科学の見識に注目する前の時期のはずなのでちょっと気になったからです。詳しい人に聞きたいところです。
(追記:NK1.1をみたところ、ニーチェが影響を受けているショーペンハウアーが夢や陶酔を生理学的現象と言っているようです。もしかしたらニーチェはここで「生理学」という言葉にそんなに重要な意味を込めていないのかもしれません。つまり、「中期」のような精神的な現象を解釈する独創的な手段として主張しているのではないのかもしれません。あくまで夢とか陶酔という現象が重要なだけであって、精神的なものを生理学的なものに読み替える手段一般を主張しているのではないと考えられます。)

夢の中において初めて、ルクレティウスの考えに従うなら、壮大な神の形態Göttergestaltが人間の魂のへと歩み寄ってきたのである。偉大な造形家は超人的な存在の魅力的な体つきentzückenden Gliederbau übermenschlicher Wesen,を夢において見たのであり、ギリシアの詩人は詩的なあかしの秘密に伺いをたてながら、いかなる場合も夢を想起させられ、それと似たような教訓を示したのである。マイスタージンガーにおいてハンス・ザックスがそれらを提示しているようなものである。

我が友よ、詩人の仕事とは
まさに、彼の夢を明確にし顕在化させることなのだ
私を信じなさい、人間の最も新なる迷妄とは
夢において彼に開かれるのだ
芸術と詩歌は
真の夢を明らかにする者に他ならない

GT1, KSA1, S.26, Z.7-20

 さて、まずは夢、つまりアポロン的なものがテーマになります。そしてこの本では芸術家の事例が取り上げられます。ルクレティウスは紀元前97年頃から紀元前55年を生きたラテン語詩人で、唯物論的な内容の詩を書いたようです(ここのところは白水社版のニーチェ全集の該当箇所についている注釈をまるパクりしています)。だとすると、唯物論的な考えの人が神の姿を夢の中にみることを語っているということで、なかなか矛盾的な話になっている気もしますね、ルクレティウスその人の思想も気になるところです。
 ともかく、その次の「偉大な造形家」の話も合わせてニーチェが主張しているのは、夢の中でこそ我々は「壮大な神の形態」であったり、「超人的な存在の魅力的な体つき」をみることができるということでしょう。「超人的な存在」とは神々とは限らず、ともかく人間を超越した存在でしょう。キリスト教であれば天使とかも超人的な存在になると思います。とはいえここではあまりそこのところを厳密に分ける必要はなさそうなので、まとめて「神」とか「神々」ということにします。さて、神々は我々とは全く異なる存在であるため、普通は神がどんな存在なのかを知ることはできず、その形態を表現することもかなわないはずです。しかし、夢の中ではそれをみることができるということが言われています。ここでポイントなのは神とそれをみる人間が別々の存在のままだということでしょう。この点はのちのディオニュソス的な芸術との対比で明確になるでしょう。
 さらには、詩人の例も出てきます。詩人は詩作にあたって夢を想起して、そこから得られるような教訓に似たものを詩に反映するということです。ここではハンス・ザックスという15世紀末に生まれ16世紀を生きた詩人の作品です。ワーグナー作の『マイスター・ジンガー』といオペラから取られています。ここでは詩の中ではっきりと、詩が夢を顕在化させるという使命が語られています。

第三段落

 この段落でも第二段落の後半から続けて夢と芸術の話がなされます。

夢の世界を生み出すことにおいてはあらゆる人間がまったき芸術家であるのだが、そのような夢の世界の美しい仮象はすべての造形作品の前提条件なのである。むしろそれどころか、それはわれわれがこれから見るように、詩句〔のため〕の重要な半面なのである。

GT1, KSA1, S.26, Z.21-24

 ここではなかなかすごいことが言われています。夢を生み出している限りで我々はみんな芸術家だというのです。このことはもう少し材料が出揃ってから検討したいと思います。そして同じことになるかもしれませんが、そのような夢を生み出すことこそが芸術家の条件になると言われています。

われわれは形態の直接的な理解のうちで、われわれに語りかけてくるあらゆる形式Formを享受するのである。ここにはどうでもよいものや不必要なものはなにもないのである。

GT1, KSA1, S.26, Z.24-26

 ここでは夢の中で何が起こっているのかが描かれています。夢の中では「形態の直接的な理解」がなされており、そのような理解においては形式を享受することになるので「どうでもよいものや不必要なものはなにもない」と言われます。これはプラトンの言うイデアを認識することに近いことではないでしょうか。イデアは天上の世界に存在する真実在であり、完全なものです。花であれば花のイデアは花の特徴が完全に現れているものであり、見本になるものです。そのため、それが「形式」と言われているのでしょう。そのようなものが現れている夢においては全てが完全であり、不必要なものは何もないというわけです。

このような夢の現実性の最も高い生のもとで、われわれはしかしなおもそれらが仮象であるというほのかな感覚を有するのである。少なくとも、このこと〔夢の中でそれが仮象だと気づくこと〕は、その頻度からして、私の経験なのであり、それどころか私の普通のあり方なのであるということを示すために、私は多くの証拠や詩人たちの発言を提示しなくてはいけない。

GT1, KSA1, S.26, Z.26-30

 全文で言われていたようなイデアの観照にも似た夢の経験をニーチェは「夢の現実性」と呼んでいます。普通、我々は夢と現を厳密に異なるものを考えて現、つまり目覚めている時の経験だけが「現実」であり、真剣に向き合うべきものと考えます。それどころかそのような夢こそが「最も高い生」とさえ言われています。普通はそうは考えられません。どんなに耐えられないような悲しい夢を見た時でも、それはあくまで夢に過ぎないので、その夢を理由にして仕事を休んだりということはできません(悲しい夢の背後には精神的・身体的な不調があって…という場合には話は別ですが)。反対にニーチェは夢にも現実としての重要性があると考えていたのでしょう。先の詩人の例を想起するなら、夢において我々は何らかの示唆を得ることができて、それが実際に生を意味づけるということにもなります。
 しかし、そのような夢の現実性とは反対の含意を持ちそうなことが言われます。我々は夢を見ながらそれを「仮象」、すなわち現実ではないものだと意識することができるというのです。それは「これは夢に過ぎず、現実ではない」という意識であり、酷い夢のなかでそのことに気付いたのならば、その意識によって安心することができるでしょう。「明晰夢」というのがこれに当たりそうですが、明晰夢は夢の内容までも意識的にコントロールできるもののようなので、ニーチェの言っていることより一段進んだことのようです。
 僕自身はこのようなことは経験したことがあります。幸せな夢の中で何となく「これは夢なんだな」と感じて、尚且つ起きた後もそのことを覚えているということが幾度かあったと思います。なので、このように書かれてもとりあえず納得はできます。皆さんはどうでしょうか?誰もがこのような経験を共有しているのかどうか、自説の説得力があるのがどうかを不安視してかは分かりませんが、ニーチェはこの夢の自覚の事例を提示しようと述べています(すぐには提示されません)。

哲学的人間は加えて、次のような予感Vorgefühlを持っている。つまり、われわれがその中で生き存在しているこの現実の下に第二の全く異なる現実が隠れて横たわっており、それゆえ第一の現実もまた仮象であるという予感である。そしてショーペンハウアーは、人間とすべての事物がときに単なる幻あるいは夢の像としてある人に現れてくるという天分を哲学的な能力の兆候と名指したのである。

GT1, KSA1, S.26, Z.30-S.27, Z.2

 ここでは全文の、夢の中で夢が仮象だと感じる感覚を敷衍させて形而上学的な話に移ります。我々がときに夢の中でとてもリアルな体験をしつつも「これは夢だ」と感じるように、「哲学的人間」は「われわれがその中で生き存在しているこの現実」の下に(裏に?)「第二の全く異なる現実」が隠れていると予感すると言うのです。先ほどは夢を現に近づけて現実として解釈するという方針を取りましたが、ここではこの解釈を修正して、〈この現実は夢のような仮象であり、この現実の他に別の現実が存在している〉という方向に解釈することにしましょう。これはまさにイデア論、あるいはカントの現象と物自体の説のようなものでしょう。つまり、我々が通常経験している事物や世界は真なるものではなく、現象に過ぎないもの、我々の認識能力に相関的なものであり、そのもの自体ではないという主張です。ショーペンハウアーはカントの議論を踏襲して、我々が見たり聞いたり経験する世界は「表象」に過ぎないものであり、根底にある「意志」の世界こそが真なるものだと主張し、「意志」の世界を正確に認識することを目標としました。
 ニーチェはこの点を念頭に置いていると思われます。ニーチェの言い分で特徴的なのは「哲学的人間」になるために必要な天分を問題にしていることです。哲学は世界がどうなっているのかを正確に捉えることを目標にしていて、しかも学問として考えるなら、それが「誰によって営まれるのか」は問題ではないはずです。もちろん能力の多寡という意味で適不適はあるでしょう。しかし、ニーチェが問題にしているのは「予感」であって、反省的に考察することとは異なる営みが想定されています。これは、ニーチェが優れた哲学者を芸術家のようなものとして捉えていたことを示していると考えられます。
(ここでは夢と現実の関係の解釈方向を変更して、「この現実は夢のようなもので、真実在は別の深い現実の方にある」と考えることにしましたが、解釈をこの方向に限定するのは危ないかもしれません。というのも「夢も現と同じようにリアルなものである」という主張は芸術家の創作活動に関して言われていて、「この現実は夢のようなもので、真実在は別の深い現実の方にある」は「哲学的人間」に則したものだからです。全く別の事例の話をしていると考えたほうがいいかもしれません。この点は後の箇所を見ながら適宜修正などを行おうと思います。)

さて、哲学者が現存在〔=人間の現実存在〕の現実性に関係するように、芸術に対して敏感な人間は夢が現実であることに関係するのである。芸術的な人間は細心の注意で好き好んで眺めるのである。というのも彼はそのような像から生を解釈するのであり、そのような模範にそって生のための訓練をするのだから。

GT1, KSA1, S.27, Z.2-6

 ここでは話題が芸術家に戻ります。この後、段落の終わりまで芸術家と夢の現実性の話が続くので哲学者の話はここでは脇道だったんですね。先に夢を現実のように経験するという話をしたときに、同時にその夢を夢として現実ではないという感覚(仮象の感覚)も持っているという話がありました。このような夢の現実性の感覚が哲学者の素質の話を経てまとめられている箇所になります。

彼がかの全き理解可能性をもって自ら経験するものは心地よく親しみのある形象だけでは決してない。真剣なもの、濁ったもの、不気味なもの、突然の気後れ、偶然の悪戯、不安な期待をも、要はまさに地獄編も含んだ生の「神曲」もまた彼のもとを通り過ぎるのである。それは単に影絵劇のようにではなく ― というのも彼はその場面の中で生き、共苦するのだから ― 、かといってそこに仮象であることを一時的に感受していることがないわけでもない。そしてひょっとすると彼は私と同じように、夢の危険と驚愕の中で時として勇気を持って成功裡に次のように叫んだことを思い出すだろう。「これは夢だ!私はこの夢を見続けよう!」と。

GT1, KSA1, S.27, Z.3-17

 ここでは夢の具体的な内容の話になります。先に夢の中では形式そのものが享受されるということが述べられましたが、とはいえ夢の中に登場するのは「心地よく親しみのある形象」だけではなく、「真剣なもの、濁ったもの、不気味なもの、突然の気後れ、偶然の悪戯、不安な期待」をも含んでいるというのです。先に確認したように芸術家はその夢をリアルなものとして経験しているので、「単に影絵劇のようにではなく」経験するのですが、同時に夢が仮象であることを自覚してもいるため「これは夢だ!私はこの夢を見続けよう!」と叫ぶことができるというわけです。

また人が私に語ったように、一つの同じ夢の連鎖を三夜以上にわたって続けてみることのできた人物がいる。この事実は、我々の最も内的な本質および我々すべての共通の基礎が、深い快感や悦しき必然性とともに、夢それ自体を経験するのだということの明確な証拠を提供するのである。

GT1, KSA1, S.27, Z.18-23

 ここのところはどう考えればいいんでしょうね…とりあえず、芸術家が夢を①現実として感覚すること②仮象という自覚を持って経験することに則して読解を試みましょう。「一つの同じ夢の連鎖を三夜以上にわたって続けてみる」ことは①にあたるでしょう。この経験は夢が現のように因果関係に即して動いていると認識させることになるでしょう。
 「この事実は、」以降の部分が頭を悩ませます。とりあえず文言を整理すると、「一つの同じ夢の連鎖を三夜以上にわたって続けてみる」人がいるという事実は、「我々の最も内的な本質」と「我々すべての共通の基礎」が「夢それ自体を経験する」ことを示しているというのです。ここで引っかかるのは、「我々が夢を経験する」という言い方ではなくて、我々の「本質」や「基礎」が夢「それ自体」を経験すると言われていることです。推測するしかないのですが、夢こそが我々の本質に通じているのだということが言われているのかもしれません。現時点ではニーチェがそのように考えていたという確証はここではありませんが、先に詩人が夢から生についての教訓を持ってきたということを考え合わせると夢において生の本質に関わることが起こっていると考えることはできそうです。夢と我々の本質が一緒と僕の推測は、この詩人についての考察をよりラディカルにしたものです。とりあえずそのように仮固定して、その当否は読み進めながら考えることにしたいです(頼みの綱のNKではそもそもこの箇所は扱われていませんでした…)。

 さて、今回はここまでにします。書いていてなかなか読みづらいものになってしまっている気がします。また、読解もあまり面白いものではなくてちょっとがっかりしています。とはいえ読解すべき箇所はまだまだたくさんあるので、書きながら上達することを願いましょう。それでは、また。

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