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「生きる」という言葉の不明瞭さ

「生きる」という言葉に変わる言葉が欲しい。というのも、今我々が何気なく使っているこの言葉はあまりにも余計な意味を含めすぎているからだ。

「どのように生きていくのか」という時に、ここには二つの規範性が含まれているように思う。

一つは、我々は生きていかないといけないという規範であり、
もう一つは、社会的に認められた仕方で生存しなくてはいけないという規範である。

これらの規範性は「生きる」という言葉があまりにも基礎的であるために、多くの場面で多くの人に使われて、そのことで多くの文脈を吸収してしまったことによるのだろう。

そしてこの二つの規範性に今僕は強烈な違和感を覚えている。

まず、生きていくことへの義務など真剣に感じることができない。生まれたことやこれまで生存してきたことに関してなんらかの責任を負うことになるとは思いたくない。「産んでもらったのだから」「(親や学校や社会に)生かしてもらったのだから」それに応えるという考え方は、既存のものを保存する保守的なもので、それは基準から外れたものを排除する抑圧的なものだろう。なぜなら、自分を育んでくれたものに報いるとは、自分にとって「すでにあったもの」を保護することだからだ。そしてこの考え方は、何より個人の生を、後払いで買い取られたものと捉えることになる。

これはもしかすると、反出生主義の立場に近いかもしれない。この立場の一つの代表であるベネターの主張によれば、誕生することは誕生しないことよりも悪く、人類は生殖へのコミットを控えて徐々に絶滅していくことが良い。(ここの整理は間違っているかもしれないし、ベネターの主張は多くの論争を巻き起こしてベネターがそれに応答して別の本を出しているから、現在では異なったものになっているかもしれない。)

しかし、僕はこの主張に賛同し共感するものの、違う主張をしている。まず、ベネターの主張は未来に向かったものである。子を産むべきではないという規範はすでに存在してしまっている人間の親を非難するためにあるのではなく、これから生み出されるかもしれない子供を減らすためのものである。それに、ベネターの主張は倫理的な「よさ」を求める過程で出されている。究極的にはあらゆる人間に適用可能な主張であることを求められる。

これに対して僕の「生きていく義務などない」という考えは、個人的なものであるし、過去への恨みにも似た感情からきている。過去への恨みとは、他ならぬ自分という人間が生まれてきたことへの恨みである。断っておくと、これは両親への恨みではない。僕が生まれたという事実への恨みである。そのために、僕の立場は直接的には反出生主義を主張するものではない。この主義に共感と賛同をしているけど、それは別の考えからだ。

第二の規範性として、「社会的に認められた仕方で生存しなくてはいけない」というものを挙げた。「どうやって生きていくのかを考えなさい」親とか会社とか学校からそう言われる時に、そこには「合法的に」という注釈がついている。どんなにこの社会とか法を含めた規範を憎んでいても、そこに適合するか適合する擬態をして生きて行きなさいということ。あくまでそういう雰囲気を感じて嫌だなと思うわけだが、ここには確実に人のエナジーを切り詰めるものがある。

規範性とか言っておきながら、「規範的な匂いがしてなんとなく嫌だ」というふわっとした話になってしまった。開き直ってもう少し「感じ」の話をしよう。

僕が「生きる」という言葉を使いたくなくなったのは、この言葉があまりにも陳腐に使われて、無節操に前向きな文脈を吸収してしまったからだ。この辺は「自分らしさ」とか「夢」とかそういうものと一緒だ。企業が製品を売るために宣伝でこういう言葉を連発したことによって、今や「自分らしさ」は化粧品と転職活動の中にしかなくなったのと同じことだと思う。

「生きる」ことは誰かの体験を引用した説教の中に、清涼飲料水や寝心地の良さを売りにする寝具や家族で使う車を中心にした、そこにいる誰もが笑顔な露骨にフィクショナルな映像の中のものになってしまった。「生きる喜び」ってものすごく陳腐な響きだと感じませんか。

似たような話だけど、「生きることは素晴らしい」みたいな言説も一様な形で氾濫している。著名人なんかが辛い経験を乗り越え、今は楽しくやりがいを持って生きているという物語が好まれている。「辛い経験」のその最中にあり、そこから抜け出せるのか、苦労が報われるのかわからない状態の人間は顧みられない。下品な好奇心を満たすためには取り上げられもするが。

定義上、「生きる」という言葉は辛い経験もその後の成功も包含できる。その著名人の来歴を物語に仕立てて「人生」とか「生き様」というタイトルをつけることができてしまう。「生きていればいいことがある」とか「人間万事塞翁が馬」とかいう言葉はもっと「奥の手」のありがたい言葉だったのだろうけど、一部の画一的な物語に収斂させられ、それが乱発されることによって価値のないものになってしまった。

こういう事情から、今自分が存在して、これからも(どのくらいの長さかはわからないけど)存在し続けることを「生きる」という言葉で呼びたくはない。別の言葉が必要になる。

僕は一週間先のことくらいしか考えられないが、その限りでは存在し続けるだろうと思っている。少なくとも一週間以内に自殺するという確信はない。一週間は存在し続けるだろう。しかし、規範的で陳腐な「生きる」ことにコミットしたくはない。生物学的に生存しつつ、考えたり遊んだりすることをなんと呼ぶかだ。

あるいは、「生きる」に代わるような包括的な言葉を拒否してもいいかもしれない。そしてそのことは、「僕」という連続性を拒否することにつながるかもしれない。僕はこの連続性を意識することで出生を拒否し、生存をも拒否したくなっているわけだが、その連続性を断ち切って考えることで違う景色が見えるかもしれない。でもそれは、「生きるつもりになってんだね、よかった」ということではない。

そもそも、「憎しみによって存在できる」という話をしたかった。少なくとも自分は他人への善意によって、あるいは情熱によって何かに打ち込むことはできない。何かに憎しみを抱いている時に比較的パフォーマンスが上がることがある。「憎しみ」であって「怒り」ではない。反動的な価値観の支配とか差別とかに物申したいときも、公共性のある「怒り」ではなく、個人の好き嫌いに基づいた「憎しみ」によって何かを言っている。

しかし「憎しみによって生きる」と言ったときに、「生きる」にどうしても引っ掛かりを覚えた。何か綺麗な物語に回収されてしまうのではないか、やがて憎しみからの救済みたいなオチになるのではないか。「生きる」の持つバイアスからそんなことが起こる気がした。そういえば、僕はドストエフスキーの『罪と罰』が好きなのだけど、ラストが好きではない。ラスコーリニコフは自分の思想(大義のためには卑小な生は殺されても構わないという、犯罪哲学とか言われるもの)を実践しようとして破滅するのだが、その敗北が「愛による救済」に落ち着いてしまうのだ。

別の言葉として「存在し続ける」というはひとまずいいのかもしれない。「存在」は人間や動物以外の事物にも適用できる言葉だから、即物的な感じがして良い。頑固で邪魔なものがあるって感じかする。

「憎しみによって存在し続ける」ってのは今のところしっくりくる。

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